大崎正裕(おおさき まさひろ)
大学院美術研究科
美術学部教授
其の他、個展(企画展) ギャラリーウェストベスコズカ〈名古屋〉にて多数。 グループ展(企画展) ヴォイスギャラリー〈京都〉やギャラリーなうふ〈岐阜〉など。
<主な展覧会計画>
自己の主張
氏が制作したインスタレーション作品については、展覧会の案内や紹介された記事などから概要を知ることができる。インターネットで検索すれば作品の写真や展示されている様子などを見ることもできる。しかし、絵はない。若き日に打ち込んでいた油彩画はどこにもない。どんな絵を描いていたのか、わからない。専門であった油絵について伺うと、返ってきたのは意外すぎる言葉だった。「処分しました。作品が気に入らなかったんですよ。気に入らなくて、すべて処分したんです」
長崎県に生まれた。近隣には美術館もなく、大きな展覧会も見たことはなかった。美術に触れる機会は少なかったが、絵を描くことと建築設計が好きだという思いだけで美術の道に進んだ。高校では美術部に所属したが、石膏像もないような具合だった。それでも研鑽に励み、愛知県芸の油画に入学した。倍率60倍ほどと現在よりも狭き門の頃である。大学では島田章三氏(愛知県立芸術大学名誉教授)や大沼映夫氏や笠井誠一氏に師事し、精励恪勤した。「それほど美術に触れる機会もなかったので、日本画と洋画の区別といったことにも意識は低かったですね。こだわりもないまま自然と洋画を選んでましたね。大学に入ってすぐに、島田先生に褒められたことがあって、それが発憤材料になって打ち込みました」
大学の卒業と同時に本学の助手になるが、恩師である大沼先生の「一生絵に関わっていくのなら大学に勤める方がいいじゃないか」という言葉に後押しされたためだった。本学創設3年目の頃で、建物といえば現在のA棟と食堂がある程度、B棟は建築中だったという。設備はもちろん、カリキュラムも足りないものばかりであった。不足しているものを、できることから一つずつ揃えていこうと奮闘が始まった。洋画の基礎となる溶剤や画材の専門家(組成学)を教員として招いたり、また、見よう見まねだったが4版種が揃った版画工房も作った。さらに現代アートや版画について教えられる指導者を、自分の大学時代の先生や先輩を頼り紹介してもらった。大学らしく、芸大らしくなるよう、ブロックを積み重ねるようにして作っていったという。
そうした教員としての業務の傍ら、自分の作品作りにも励んだ。しかし、ある芸術団体に所属するようになり、何かが変わっていった。人間関係もさることながら、作品の内容に違和感を持つようになっていった。そして、団体とは距離を置くようになり個展を中心とした活動になっていくのだが、絵を描くこと自体がつらくなってしまったという。現代アートに影響を受けながら、徐々に伝統的な絵画からは離れていった。そして、これまで描いた作品を処分してしまう。30代半ばの頃である。
穏やかに語るが、壮絶な決意があったに違いない。すべてを断ち切るために、それまで打ち込んできた制作してきた作品をすべて処分したのだ。本人は気に入らなかったからというが、そんな簡単なことではなかっただろう。作品を捨てることで自分の中の何かを守ろうとしたのではないだろうか。
絵画、立体、音楽、おおよそ芸術作品には、作者・演者の自己が何かしらの形で投影されているものである。良きにつけ悪しきにつけエゴイスティックなまでに作者・演者の思考が投影されている作品は数多い。氏の制作する作品はその対極にあるように感じる。しかし、その静かで内省的な世界には、想像できないほどの激しい自己の主張がしっかりと横たわっているのではないか。「人があって自分があるわけです。他者があって初めて自分を認識するんです」 作品世界は、他者を見ることによって、作品を見る自分を意識するように仕組まれている。そして、作者が自分を確かめるように、作品を見る者も自己を感じるのである。
姿勢はプロディースにも共通している。「人が活きて、初めて自分が活きる。そう思うんですよ」 黎明期の本学洋画科を築いていったときと同じである。意志のある者がいれば、その場所に環境を整える。作品自体に意見するような手法ではなく、作者の考えをできるだけ尊重し実現に向けて制限をできるだけ外していく。作家の個を尊重しながら、ぶつかり合うことなく、それでも確かに存在するプロデューサーとしての個。すべてを受け入れるようでいて、なにものにも侵されない強烈な個がそこにある。