名古屋芸術大学

マスターtoアーティスト

萩原 周(はぎはら まこと)

デザイン学科科長
教授

1962年
奈良県生まれ
1985年
武蔵野美術大学造形学部基礎デザイン学科卒業
1986〜91年
武蔵野美術大学専任助手
1991〜93年
ドイツ学術交流会(DAAD)給付留学生としてハノーファー大学建築学科工業デザイン研究所
広場を中心に公共空間の調査と研究
1994年〜
東海大学、和光大学、武蔵野美術大学(特別講師)などで非常勤講師
1996〜99年
愛知文教女子短期大学デザイン美術科講師
2000年
本学専任講師
2006年
准教授
2015年
教授

 奈良県 高野山の麓で洋画家の息子として生まれる。進路に関しては紆余曲折の後、武蔵野美術大学に入学。基礎デザイン学科にて生涯師と仰ぐこととなる向井周太郎先生のゼミに所属。卒業後、6年間教務補助員、専任助手として武蔵野美術大学に勤務。この間、'89にウルム造形大学関連の展覧会・ワークショップの企画・運営・制作に関わる。また'85よりレイインダストリアルデザイン事務所(社長:赤瀬達三/現 黎デザイン総合計画研究所)に勤務し、営団地下鉄(現東京メトロ)のサインシステム、六本木アークヒルズのサイン計画等の制作に携わる。'88の夏季3ヶ月にわたり武蔵野美術大学からの給付による欧州研修に赴き、建築、公共空間を中心に英国はじめ7ヶ国を巡り、その際に東ドイツ(当時)デッサウのバウハウス校舎にて開催されたバウハウス展を訪れる。助手退任後、'91にドイツ学術交流会の給付留学生としてドイツに渡り、足掛け3年にわたりドイツ・ハノーバー大学に留学し、工業デザイン研究所:ヘルベルト・リンディンガー教授(当時)のもとで欧州の公共空間の調査研究を行う。帰国後、2年間東海大学、和光大学、武蔵野美術大学、愛知文教女子短期大学、名古屋芸術大学にて非常勤講師、特別講師として勤務。'96より愛知文教女子短期大学の専任講師、'00にライフスタイルブロック開設、ファンデーション教育プログラム見直しに関わるべく名古屋芸術大学に専任講師として着任する。

人と文化から生まれるかたち

 「僕は、作品というかたちで出すようなタイプでやってこなかった」 通例ならば、この誌面には作品の写真が多数並ぶことになる。しかし、今回は、見栄えのする画像は少なくなりそうだ。というのも、今回の主人公は、考えることを生業とする人であるからだ。「僕の作品は、論文ほどはいかない、エッセー的なものであるとか、ともかく、プロセスや仕組み、思考の仕方などを綴ったテキストというかたちが多いのかもしれません。思考そのものも文字をベースに成り立っているような気もします」

 文章の書き方は、洋画家だった父親から学んだという。「親父は文学青年で、絵にもうるさかったですが、むしろ文章を書くこと、とにかく作文にうるさかったですね。作文を学校に持っていく前に、親父に添削されてなかなか持っていけなかった」 御父上は、自分と同じ芸術の道よりも、医者を目指して欲しいと考えていたようで勉学に厳しく、また、それに応えて、高校は県内有数の進学校へ進んだ。進路に悩み出したのは、高校3年になってから。「医学部志望と模擬試験なんかでは書いていました。文系科目は良かったのですが、途中から理系の科目がだめになってきて、無理だなと。美術系にいこうと思った動機は、満員電車に乗らなくていい仕事に就きたい。不純な動機ですよ(笑)」 受験も迫った秋になり、父親に相談。本意ではなかったが、美大を受験することを理解してくれた。しかし、「おまえは、センスがない」ということで彫刻や絵画へ進むことは反対された。技術も伴っていなかった。それまでデッサンもやったことがなく、数ヶ月で受験を迎えるのだ。父親、高校の美術の先生に一からデッサンを習い、父親の知り合いであった武蔵野美術大学の先生などにも相談したりもした。そうしているうちに紹介されたのが武蔵野美術大学の基礎デザイン学科だった。考えることに重きを置く内容に、自分に適していると感じたのか魅力を覚え、進む道を決めた。目標が明確になると、遅れていたデッサン力を身につけるため一計を案じた。浪人生が通う予備校に入れてもらい、浪人生が描く様子を観察した。「鉛筆で書く技術というのは、ものを見ていてももはや無理だと思って、描き方を見ていました」 絵画に限らず音楽でもどんな分野でも、芸術には“技術を磨く”という側面がある。付け焼き刃な方法は、技術を極めてこそ辿り着ける本質を遠ざけるという考え方がある。しかし、芸術は、思考と技術の両輪があって成り立つものである。デッサン力を身につけるため描き方を観察するという方法が、基礎デザインという学問の入り口になったということが面白い。

 「大学に入って『基礎デザイン学科はデザイナーを必ずしも養成しません』といわれて面食らいましたよ。僕自身、何になればいいのか、基礎デザインとは何なのか、大学の間は実感のないままいたのかもしれません」 3年になる頃、友人宅へ遊びにいき、その部屋の本の量に圧倒されたことがあるという。「壁から足元から全部本でした。こいつ家ではこんなに本を読んで勉強しているんだと思って。このままでは自分はだめだなと思い、刺激を受けました」 大学時代は、プロフィールにもあるようデザイン事務所でアルバイトをし、鉄道などのサインシステム制作に関わっていた。大学を卒業するにあたり入社を促されもしたが、「一生涯、サインシステムをやるのは」と躊躇し断った。一つの領域に執着する決意がなかったともいえるが、自分がやる仕事ではないと感じ取っていたのだろう。

 学生時代のゼミ、また助手になってからの師となる向井周太郎氏と出会いは大きなものだった。「かたち」を作ることがデザインであれば、その「かたち」はどうやって出来上がってきたかを探求する基礎デザインという学問。向井氏は、「かたち」は生活の中にある行為や所作から生み出されるものであること、さらに、世界の「かたち」、「美」、「秩序」について、長い年月をかけて教えてくれた。師から薫陶を受け、助手時代には、まだ東ドイツ時代のバウハウスへ、さらに助手退任後、ドイツ学術交流会の給付留学生としてドイツに渡り公共空間の研究を行った。「留学時代は、なけなしの貯金をはたいてワーゲンゴルフとテントを買い、クルマで広場を見て回る生活でした。当時、ドイツをはじめヨーロッパからは日本に洗練されたものがどんどん入ってきて、ヨーロッパには、先進的で洗練されたイメージが強くありました。でも、実際に向こうにいってみると街路にしても個人のお宅にお邪魔しても、新しさというものは全然感じられない。こういう社会や文化の中からモダンデザインというムーブメントが生まれてきた。このことが非常にショックでしたね」 「かたち」が生まれた背景を実際に確認する旅は、基礎デザインの実践の始まりといえる。

 帰国後、いくつもの大学で講師を務め、さまざまなデザイン領域に携わってきた。一見すると、それぞれ関係ないことのように見えてしまうかもしれないが、領域を超え根本的なところで繋がっていることは、これまでやってきたことを俯瞰すれば明らかになる。そして、現在、力を注いでいる「土と人のデザインプロジェクト」は、人と地域を観察し、そこからもっとも必然性があり合理性のある「かたち」を構築するという基礎デザインの実践そのものといえる。作家は、生涯をかけて一つのテーマ、一つの作品を作ることを追い求めるものである。いくつもの作品を生み出しているように見えて、総括してみれば、それらはどれも習作だったとわかる時がある。萩原氏の多岐にわたる活動も、いずれもが互いに関連を持ち、一つの環に収束していくに違いあるまい。

洗濯バサミ(教員展)(2009)

私はもうこれ以上本質的な発展はないという意味で、デザインの袋小路に入ったものをしばしば愛おしいと思う。私にとって洗濯バサミも元々そうした存在だった。しかし、それが収集の対象となった理由は他にある。「人間のしわざ」という観点から世界を見ることは愉快だ。そして洗濯バサミはそんな人々の「しわざ」の発露の仕方を観察するテクストとしては格好な素材なのだ。洗濯バサミは私にさまざまな人の願い、戯れ、時に自慰行為が表される読み物だ。

ワークショップ:「吉祥寺 都市のかたち」

1989年に世界巡回展として開催された「現代デザインの水脈:ウルム造形大学展」と同時開催された関連ワークショップ:「吉祥寺 都市のかたち」。双方に、当時武蔵野美術大学助手として事務局、プレリサーチ実施に関わったことは、その後の私のデザイン観形成に大きく影響を与えた。昼夜ない作業の末、完成した「年表 バウハウスからウルムへ」が、展示会場の壁面いっぱいにまるで暗黒の宇宙にきらめく星々のように広がる様を見た時の感動は忘れられない。また、ワークショップのプレリサーチとして企画・実施した「積層としての環境」は、吉祥寺のまちを529個のフォトキューブとして捉える試みで、その実施・制作の困難さはもとより、最後の最後までその「意味」についてメンバー間で議論を交わしたことがこの制作が私に残した大きな財産のひとつだ。

携帯電話 基地局・中継局景観への視点(2011 教員展)

豊田市の景観アドバイザーとして助言などにあたる傍らで、これに関連した調査研究の視点を紹介した。

ドイツ学術交流会(DAAD) 審査のために提出したレイインダストリアルデザイン事務所での仕事。地下鉄の駅にある周辺地図。駅周辺を視察し、実際には地図の範囲外にあるランドマークを違和感のないように地図を歪ませて取り込む。そうとは気付かせず利用者の感覚にマッチした地図を作り出す。

「ライフスタイル・デザイン」の考え方は、「モノ(生活に関わる具体的な物)とコト(生活習慣や社会的な事柄)から生活全体を捉え、デザインの視点から人間にとって望ましいありようを創造する」ことであり、バウハウスの理念、基礎デザインの考え方の流れを汲む。2冊の冊子、特に2004年発行の「ライフスタイル・デザイン」は、ライフスタイルブロックが目指す教育・研究哲学の宣言書として位置づけられる。この6年後発行の「ライフの教科書」は、そうした哲学の基に展開された教育法の検証・紹介のための編纂であった。

2004 みのかも文化の森共催企画

ライフスタイルブロックでは《生活を観察し記録する》ことを全ての研究教育活動の核として捉え、学外でも実験的な試みを行っている。開設間もない2004年には、「みのかも文化の森」との共催企画として、フィールドワークを基にした観察・編集・展示「みのかもスタイル」、夏休みの親子ワークショップ【まちを探検しよう】を企画・開催した。(2004)

土と人のデザインプロジェクト(2012-2015)

の周辺地域の価値を見つめ直し、評価し、編集し、提示する一連のプロジェクトは、地域コミュニティーの新たな可能性を提示する試みであったと同時に、私にとっては、人と環境が分かち難く結ぶついていることを改めて意識化する機会であった。かつての欧州での公共空間研究の折、当初はその装置的関心に偏っていたまなざしであったが、最終的に「公共空間の意味形成」を決定的にするのは「そこに住まってきた人々の世代を超えた営み」なのだ、という確信を得た記憶が、ここに来てまた強く甦ってくる。

向井先生は穏やかに私の欠落や過ちをそれと悟られぬよう指摘し、そこからの道を示唆された。師は優しい口調で世界の「かたち」、「美」、「秩序」などについて語られた。デザインは領域を超える、いや領域を持たない、デザインが、もはやデザインで収まりきれぬ可能性を秘めた思考とまなざしであることを私に時間をかけて今も語りかけてくれていると思う。

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