松岡 徹(まつおか とおる)
美術学部 准教授
絵画、版画、写真、彫刻など、多彩な手法で、国内外(スペイン、オランダ、ドイツなど)で多くの作品を発表。佐久島(愛知県・西尾市)でのアートワークは、2001年から現在も継続中。
美との邂逅
作品が面白い。愛嬌のある顔立ちやとぼけた佇まいの像、愉快なかぶり物とそれらを実際にかぶった写真……、文字通り、思わず笑みがこぼれてしまう面白さがある。こんなに面白くて大丈夫? と心配になっても、作品たちは「大丈夫だよ!」と優しくも力強くいってくれている気がする。そうして、なぜか作品を見ている自分がすこし元気になっている。学生時代からさぞや破天荒な作品を作っていたのではと思わせるが、実情は全くの逆だった。「なにをやっても全然しっくりこなくて、とにかく焦って探していましたね」
生まれつき足が悪く、小学生の頃に大きな手術を受けた。子どもらしく表を走り回るどころか、体育はいつも見学、遠足も現地集合といった、そんな子ども時代だったという。必然、楽しみは絵に向かった。絵画教室に通い、そうした流れで本学洋画科に入学するものの、漠然となにか作りたいという気持ちがあるだけで、大きなキャンバスに絵を描きたいと思っていたのではなかったという。「油絵をやるということについては、自分よりはるかに上手な人たちがごろごろいて、テクニックだとか作品のこなし方が全然違っていて、とてもじゃないが太刀打ちできない。入学してすぐにわかって、どうしたものかと思っていました。美術に対して知識がなかったということもありますね」 デッサンが苦手で、筆で描くことにも悪戦苦闘していた。当然、芳しい結果が残せるわけもなく、焦りばかりが募った。そんな時に、版画コースが新設される。「どうしていこうかと思っているうちに版画の授業で、何人かの先生が自分の作品を面白がってくれました。版画は、これまでみんながあまりやったことをないようなことをやるじゃないですか。その分技術的な面で差がないし、しかも筆で描くのではないので、自分のイメージに近いものが描けるかもという期待もありました。版画の先生は、西村正幸先生もそうですし、以前いらっしゃった武蔵 篤彦先生(現京都精華大学副学長、1983-88年本学専任講師)など、個性的な先生が多かった。自由な雰囲気がよくて、ここだったら自分の得意なことを生かせるのかなと3年後期からコースを変更しました」
版画に移ったからといって作品がよくなったわけではなかった。版画コース第1期生は6名。自分以外の5名は、洋画でも一目置かれるような上手い学生や版画に強い魅力を感じている者たちだった。強く版画そのものに惹かれたわけではなく、版画以外のこともできそうだと移ってきたのは自分だけだった。「まずはいろんな版種の授業がありますよね。そこで自分を試していくんですけど、結局、それはどれもピンとこないんです(笑)。なにをやってもいいといわれていたので、課題以外は絵を描いたり、立体を作るのとをやらせてもらっていました。洋画では、大崎正裕先生と退官された森真吾先生のお二人が僕の作品を面白がってくれて、洋画の中に場所を確保してくれて『描きに来いよ』といってくれていました。そんなわけで版画に移ったものの、版画ばかりで作っていたわけじゃないんです。でも思うようなものができなくて、何とかできないかなあと気ばかり焦っていましたね」 小学生の頃、現在の作品につながる原体験があった。それは、母親の実家である北設楽の「花祭」だった。花祭で使われる鬼の面に魅せられ、高校の頃から面を制作していたという。そして、版画の課題であっても、版画にあわせて面を提出していた。「大学時代もお面を作ってはいましたが、作品として評価されるとはあまり考えていませんでしたね。アートの概念からは、別のものだと考えていました。でも、夏休みの課題だとか自由制作の課題の時に版画の作品と一緒に提出していくわけですよね。『お前、これ版画じゃないぞ』ってなるんですけど(笑)、当時の版画の先生たちはその辺がすごく寛容で、『まあそれもよし』という感じてみてくれて、今でも感謝しています」 ただし納得の行く作品は、ついぞ学生時代には作ることができなかった。「いろんな版種をやりました。必ず心掛けでいたのは、これぐらいといわれたらそれよりも大きいものを作ったりとか、3版刷りはしなさいといわれたら5版刷りするとか、とにかく出された課題よりもオーバーすることを守りました。試すからには、一生懸命やらないと試すことにならないと思っていました。とにかく結果が早く欲しかったんです」 焦って空回りしていたのだろう。一つに集中して取り組むよう先生方からのアドバイスもあったようだが、聞く耳を持たず先走り続けた。結局、卒業制作も立体の作品を作った。「イメージを上手に二次元に落とし込む能力がなかったように思いますね、今思うと。気持ちばかりで……」
大学を卒業するも、作り足りない気持ちが強く、大学院が設立される前の本学に研究生として残った。当時は、景気がよくOBたちが毎月にように展覧会を開いていた。そこに出展するようになり、20代のうちは急き立てられるように作品を作り続けた。しかし、満足は行かなかった。「オファーが来るということは求められていうことなので、そこでなにか結果を出したいと、認められたいと。それだけだったですね。これが作りたかったんだというものには至りませんでした」
転機は、パリで訪れる。本学がシテ・デ・ザールを契約したばかりの頃、部屋に空きができ、講師として大学に勤めていた松岡氏にパリ行きの機会が訪れた。「ちょうど、自分の好きな形というのはなんだろうというのに、すこし迷いはじめた時だったんですね。とにかく美術館に行きました。パリを拠点にドイツの美術館に行ったり、時間があれば展覧会を見倒しましたね。ルーブル美術館には、3ヶ月の間に述べ30日以上行ったと思います。朝から閉館まで、古代とか中世以前のエジプト、ヒッタイトとか、古い遺跡とか、とにかくスケッチしました。それが結果として大きかったですね」 ルーブルで遺跡や歴史のある古いものが好きだということを再確認し、スケッチで形を体に取り入れ、そのエッセンスを自分の作品の中に注ぎ込んだ。
「自由になった感じがしましたね、帰って来てから。なんでも楽しくやって大丈夫なんだなあっていうことがパリでわかりました。美術というものの考え方が、すごく偏っていたんだと思います。ヨーロッパの美術館に展示されているものの幅の広さですね。ここからここまで美術だといわれたら、自分の思っていたのはごく小さな幅でしかありませんでした。なんだ、これも美しいものだったんだな、ということに気付かされました」 作品たちが生き生きしている理由がわかった。
北設楽郡東栄町の花祭情報サイトから
真冬に行われる祭りで、年男が鬼の面をかぶり、笛と太鼓、そして「テーホレ、テホレ」のかけ声に合わせ昼夜踊り続ける奇祭である。「子どもの頃に見た花祭は、今よりももっと土俗的で神秘的な雰囲気。結構、衝撃でした」
花祭情報サイト