マスターtoアーティスト
吉本作次
よしもと さくじ
美術学部 教授
- 1959年
- 岐阜県生まれ
- 1984年
- 名古屋芸術大学美術学部絵画科卒業
- 1986年
- 渡米、ニューヨークに5ヶ月間滞在、制作
- 1989年
- ニューヨークで個展、後にヨーロッパを初めて訪問する
- 1995年
- 名古屋文化振興事業新進芸術家海外研修の助成を受けニューヨークを訪問
- 1996年
- 平成8年度文化庁インターシップ研修生として助成を受ける
- 1997年
- 名古屋市芸術奨励賞受賞
三重と愛知を拠点に制作。現在、愛知県日進市在住
名古屋芸術大学美術学部洋画2コース教授
●個展
- 1984年
- セキギャラリー、名古屋
- 1985年
- アキライケダギャラリー、名古屋
- 1987年
- アキライケダギャラリー、東京
- 1989年
- ジャドソンウエアハウス、ニューヨーク
- 2001年
- コオジオグラギャラリー、名古屋
- 2002年
- ギャラリーOH、一宮
- 2005年
- 三重県立美術館、津、三重
- 2007年
- アート&デザインセンターBEギャラリー、名古屋
- 2008〜15年
- ケンジタキギャラリー 名古屋 & 東京
●グループ展
- 1983年
- 「五つの発熱 '83」三重県立美術館県民ギャラリー、津、三重 1985 「五つの発熱 ’85 in 横浜」神奈川県民ホール、横浜
- 1986年
- 「アートインフロント’86 - 世紀末芸術の最前線」スパイラルガーデン、東京
「第6回 ハラアニュアル」原美術館、東京 - 1987年
- 「絵画1977-1987」国立国際美術館、大阪
- 1989年
- 「現代絵画の展望-祝福された絵画(第19回現代日本美術展・企画部門)」東京都美術館(京都市美術館、高松市美術館、船橋・西武美術館、北九州市立美術館、広島市現代美術館を巡回)
- 1996年
- 「VOCA展 '96」上野の森美術館、東京
- 1997年
- 「眼差しのゆくえ-現代美術のポジション1997」名古屋市美術館、名古屋
- 2001年
- 「松岡徹+吉本作次 AFTER REMISEN」名古屋芸術大学アート&デザインセンター、西春日井郡、愛知
- 2006年
- 「Next Station - 次の美術駅へ」名古屋市民ギャラリー矢田、名古屋
- 2007年
- 「City_net Asia 2007」ソウル市美術館、ソウル
- 2008年
- 「Masked Portrait」 マリアンヌ・ボースキーギャラリー、ニューヨーク
- 2009〜10年
- 「ARTのメリーゴーランド」岐阜県美術館、岐阜
- 2011年
- 「桃源万歳!東アジア理想郷の系譜」岡崎市美術博物館、岡崎
- 2012年
- 「魔術/美術 幻視の技術と内なる異界」愛知県美術館、名古屋
好みを突き詰めて
「90分の間に、200〜300枚程の絵を見せてしゃべり通すんです」 氏が熱を入れて取り組んでいる「絵画論」という講義である。「制作者として、画家として絵のここを見ているんだということを説明しているんです。この画家がすごいといわれるのは、この絵の中のこのポイントだとか、どうでもよさそうに見えるこの線なんだ、とかです。その部分をクローズアップして見せていって、そしてこの絵と匹敵するレベルの絵はこれなんだ、と二枚を並べて、その違いを何度も比較して見ていきます。するとそのうちに、どちらが名作でどちらが迷作なのか、だんだん見えてくるようになる。これまで遠近法であったり、色彩論なども入れたりしてきましたが、今年は筆先に特化して、ストロークだけで15回の講座をやってみようとしています」 絵画論で引き合いに出される絵画は、洋画の枠に収まるどころか、日本画、古い絵巻物、現代のイラスト・マンガ、中国の書、和歌の続け文字……、おおよそ考えつく限りの絵であり書であり、線である。大胆で非常に興味深い試みである。作品の歴史性や時代背景から作家の精神性について論ずる、いわゆる美術評論とは大きく異なる見方の提示である。学生諸氏なら課題に向かうとき、出された課題とは別にもう一つ自分だけの個人的な裏テーマを心に抱えつつ制作に当たる様なことを経験してはいないだろうか。絵画に限らず“もの”を創作している方々ならば、たとえそれが音楽の演奏であっても、個人的な試みを持って制作に望むということを経験していると思う。氏の試みは、作品が抱え解決しようとする問題だけを見るのではなく、裏テーマともいえる作家の個人的なトライアルや無意識までを子細に観察し、そこから美の普遍性を導き出そうという行為に見える。実際に講義を受講したわけでもないので大げさかもしれないが、この方法は、柄谷行人が「日本近代文学の起源」で行った検討方法と同じもののように思われる。既存の美術史が手法として用いている要素とは異なった要素と方法を使い、美の存在と評価方法を正そうと取り組んでいるのではないか。柄谷風にいえば、過去の歴史がじつは歴史化された歴史でしかなく、絵画を絵画たらしめている色、モチーフ、線といった基本要素をつぶさに確認することで歴史を問い直し、未来の絵画の可能性を見いだそうという行為といえないだろうか。一つの講義で使用する絵画が200〜300枚というから、15回の講義全体では3,000枚以上の絵を用いることになる。講義を行うためには膨大な見識と労力が必要になることはいうまでもない。絵画の面白さがもう一つわからないという美術以外の学生にも楽しめる講義なのではないだろうか。絵画の見方がわかるようになるに違いない。絵を準備するだけでも恐ろしく手間がかかっている、贅沢な講義なのだ。
翻って氏の作品をじっくりと眺めてみる。なるほど、さまざまな絵画(洋画だけではない!)がそこここに見て取れる。「例えば、シャイム・スーティン入ってます、アルブレヒト・アルトドルファー入ってます、広重の構図使ってます、伴大納言絵巻の炎の感じも入れて、ルーベンスやレンブラントのグレージング技法も入れています、大体、この1枚に10人くらいは入っているかな、みたいな感じのことはよくあります」 自らの作品を分析的に説明すると、このような説明になってしまい聴く人をがっかりさせてしまうと笑わせるが、絵に宿っている得も言われぬ芳醇さの理由を端的に言い表しているのではないだろうか。講義が研究成果の発表の場ならば、作品はさしずめ研究の実践の場である。
他の作品の影響が見えると模倣、つまり「パクリ」といわれてしまうのが昨今である。過分にオリジナリティを要求する世の風潮はいかがなものかと思うが、オリジナリティについて伺ってみた。「養老孟司さんの本の中に、個性というけれど似ているからわかるのであって本当のオリジナリティというのは共感を得られない全く他人に理解できない状態だ、とあります。そのとおりだと思います。それを踏まえた上でオリジナリティというのは、共感できるレベルで、しかしながら他のものをパクってきたのではなく、その人が自己責任で作り上げていった好みの世界といえるのではないでしょうか。そうであれば、結果的にピカソに似ていてもどこかセザンヌに似ていたとしても、それはオリジナリティがあるといえるのではないかと思います。誰にも似ないゼロからのオリジナリティを学生に求めようとする美術大学とか社会の風潮は大きな間違いではないかと思います。ピカソの展覧会を見ても、どれだけ影響受けているのというぐらいいろいろな人の影響が入っています。そこからだんだんとピカソに辿り着くのに、20代の若者にあなたのオリジナル、世界で一つだけのものを作りなさいといったところで、誰にも似ていない、けれどつまらないものができるだけじゃないですか。人文科学的な観点でいえば、ニュートンの巨人の肩の上に乗っているというのと同じように、今までやってきた人のものを見て、知って、その上に1点だけ自分の新しいものを加えることができたとしたら、それがオリジナリティだと思います」 氏はこうもいう。「2016年の今を生きる画家は、歴史上の画家の中で最もたくさんの絵を見ることができます。過去を知って、そこから一周して新しいものが生み出せるのではないでしょうか。こんな状況の中で何も見ないでオリジナリティを追求するというやり方はどうかと思いますよ」
「絵画論の最初に、絵画とは作る人間の好みを煎じ詰めていくものだと、学生たちに説明します。主観なんて個人的にバラバラなものですが、それを磨きあげて誰からも文句をいわれないようにして、あんたの主観はすごいと納得させることができれば、それが表現になるのではないでしょうか。私はそう思っています」 自分の“好み”にすべてを賭ける。そこには、単なる模倣や剽窃といったものを寄せ付ける生ぬるさは微塵もない。