Master to Artist

40号(2017年7月発行)掲載

高次信也
たかつぎ のぶや

デザイン領域 教授

1951年
愛知県生まれ
1978年
武蔵野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科卒業
スズキ株式会社入社
二輪デザインを担当、多くの生産車、ショーモデルを手がける
二輪車ほか、モーターボート、セニアカーなどもデザイン
海外勤務の経験も豊富で、北米R&D駐在業務、欧州市場統括、中国市場統括、北米・欧州R&D、中国R&Dの設立業務に携わる
2014年
スズキ株式会社退職

それしかできない

 「子どもの頃は、科学者になろうと思っていた。鉄腕アトムのお茶の水博士みたいな人。そう思って、よく勉強しなきゃと思って、算数なんかも一所懸命やっていました」
 幼い頃から“乗り物少年”だったという。とりわけ飛行機には強い憧れがあった。父親の転勤で移り住んだ境港市の自宅は、米子空港(米子鬼太郎空港)、陸上自衛隊米子駐屯地のすぐ傍。米子駐屯地は、航空機乗員養成所跡地に創設された施設で伝統を受け継ぎ、現在も記念式典ではパラシュートの空挺降下が行われている。高次少年も青空から舞い降りるパラシュートに胸をときめかせたという。中学時代は、モータリゼーションが急速に進展した時代にあたり、高次家にも初めての自家用車がやってきた。高次少年の興味は、クルマへ広がった。中学2年のとき、父親の手ほどきで運転を覚えると、クルマの興味は一層強くなった(昭和40年代は、16歳から取得できる軽自動車運転免許などもあり、教習所に通わず空き地で練習して試験を受けることは現在よりもずっと普通のことだった)。中学生の高次少年は、エンジニアになってクルマを作りたい、いつしか科学者は“クルマを作るエンジニア”になった。

 高校へ進学すると、少し事情が変わってきた。世間ではイラストブームが巻き起こり、サイケデリックなイラストやデザインが世を席巻していた。高次少年もイラストを描くようになり、高校の美術部に入った。エンジニアという夢も揺らぎ始めた。というのも、現実の仕事としてエンジニアについて考えたとき、それぞれの専門分野に分かれていくことに違和感を覚えていた。「自分が好きなのは、内部の細かなメカニズムだけではなく、全体の形や、自動車としての成り立ち、そういったことに興味を持っているということに気がつきました」 そんなモヤモヤとした高校生の進路を決定づけたのは、1冊の冊子だった。富士重工業(株)(現株式会社スバル)によって制作されたスバル360の開発ストーリーをまとめた冊子がある。当時、抽選で希望者に配布されたのだが、当選し入手したのだ。中には、開発のポイントや腐心とともに自動車開発の手順が細かく記されていた。とりわけ、デザイナーの佐々木達三氏がモックアップを制作する部分に、少年は目を見張った。「『これかっ!』と思いました。クルマのデザイナーという仕事がある、クルマ全体のことを考えて仕事をしている、そのことがようやくわかったんです」 エンジニアと美術、揺れていた高校生は、インダストリアルデザイナーを目指すことになる。その思いは、ぜひとも佐々木達三氏から教わりたいに発展し、武蔵野美術大学へ進むこととなる。

 大学へ進んだ後は順風満帆に……と思いきや、1年で休学してしまう。「1年生のときの基礎ですね。名古屋芸大ではファンデーションですけど、こんなに面白くなくて、デッサンやったりとか、つまらないことばっかりなんですよ、それで腐ってしまって」 休学にはもうひとつ理由があった。学生航空連盟というグライダーのクラブに入ったのだ。学校への不満を空への憧れで発散しようとしたのだろう。ただし、グライダーと大学では、学費が足りなくなることは火を見るより明らかだった。そのため休学してバイトをしながらグライダークラブに入部、自分のやりたいことを見つめ直した。1年間休んでみて、やはり工業デザイナーになりたいと考えた。そのためのことを学びたい。幸い、2年生になると実技や演習が増えて講座にも興味が持てるようになった。ただ、その係わり方はユニークなものだった。「いろいろ課題が出るのを、全部飛行機や車に結び付けてしまうので、先生は困ったと思いますよ(笑)。でも僕にしてみれば、『それしかできない』ということなんです」

 5年かかって大学を卒業すると、鈴木自動車工業株式会社(現スズキ株式会社)に入社した。入った会社は火事場のような騒ぎだった。ときは、HY戦争の真っ只中(ホンダとヤマハによる壮絶なシェア争い。両社は、1年の間に40種類以上の新モデルを投入するほど新車攻勢をかけた。販売競争をしたものの、廉売と大量の在庫を抱えることになり、結果として両社とも多くのダメージを受けることになった)。本人は4輪を希望するものの、二輪車のデザインに配属。配属されたその日からスケッチを描いたという。「今考えても、当時はものすごい開発バブルでした。他社から3カ月に一度すべての部品が変わった新車が出てくる。ですからこっちも作りますよね、ものすごい勢いで作らなきゃいけなくて、入社したその年だけで、新人が経験する5年分くらいの仕事を経験しました。とても勉強になりましたね。なんといっても、やった仕事が全部、形になって製品になってしまう。楽しくてしょうがないですよ! ものづくりがしたくて入った会社なので、全然苦にならなかったです。今なら、超ブラックですよね(笑)」
 仕事に熱中した。北米R&Dへ赴任して大型アメリカンバイクをデザインしたり、未来のバイクを具現化したコンセプトモデルのデザインなど、大きなプロジェクトを手がけるようになる。「巡り合わせがありますよね。社内の状態や技術レベルの熟成、仕事の混み具合……、組織の中で今ならここまでできるというタイミングがあるものです。求められたときにデザイナーは、隠し持っていたアイデアを『あるよ!』といって出せないといけない。普段からアイデアを温めておき、できるだけ形にしておくんです。そうしてここぞというときに『あるよ!』と。これは、どんな仕事でも同じだと思います」 形にしておくというと、デザイン画のことを思うかもしれないが、そうではなく立体にしておくことが重要なのだという。「モデルにしておくんです。絵だとちょっと弱い。モデルになっていると設計者はすぐに検討を始めますし、営業も納得するものなんです。平面から立体を想像することは、慣れた人でなければ難しいんですよ。だから、手間がかかっても立体を作ることはとても大事なことなんです」

 アイデアの源はどこにあるのか。人それぞれに発想法は異なるものだが、その方法について伺うと「こればっかりは訓練でどうにかなるものじゃないように思いますね。でも、楽しみで落書きができる人なら、いい発想が必ずできると思います。私は、毎日落書きみたいなスケッチをしています。広告の裏なんかに人に見せるスケッチではなく落書きです。ノートやスケッチブックに描く人もいますが、捨てちゃうような落書きで残さなくていいんです。ノートに残しておいても必要なときに出てきませんよ。でも頭の中にあれば出てきます。落書きでいい線が引けたときには、必ず頭の中に残ります。そうやって蓄積されるのがいいなと思います。それを楽しみでやれること。楽しくないとデザイナーなんか務まりませんよ」

 自分のやってきたことを評して「そこにしか生きる道がなかった」と笑った。一途な純粋さが、人を動かし、形を作っている。

【グッドデザイン賞】

セニアカーET4A

1999年 セニアカー ET4A

チョイノリ

2003年 チョイノリ

GSR400/600

2006年 GSR400/600

スカイウェーブ シリーズ

2006年 スカイウェーブ シリーズ

グラディウス

2009年 グラディウス

BMW R100RSを駆る。デザインはBMWに在籍したハンス・ムート氏。この後、独立して会社を設立。SUZUKI GSX1100S KATANAを手がける

大学3年生のときの課題。50ccのエンジンで飛ぶ一人乗り飛行機。どんな課題でも乗り物に結びつけた

高次少年の将来を決定付けた写真。富士重工(当時)が配布した「The mini history of SUBARU 360」より。
デザイナーの佐々木達三氏は図面を描かず、制作には粘土模型を元に石膏型を取るという方式が採用。デザインベースとして木型にボディ外殻の限界目安となる釘を打ったものが作られた

2003年 JIDA中部デザインセミナー講演「進化―ものづくりの魅力」チョイノリのデザイン開発

2010年 浜松市美術館「モーターサイクルデザインの半世紀展」

「モーターサイクルデザインの半世紀展」ギャラリートーク。「二輪業界、デザイン業界へ少しは恩返しできたかな」

1985年 FALCO-RUSTYCO 東京モーターショー出品
10年後をイメージして作られたコンセプトモデル。モーターショーでは、夢を具現化するようなコンセプトモデルが出品されるが、二輪ではこのモデルが国内で初めてのことだった。大きな話題となり二輪業界に大きな影響を与えた。以降、各メーカーからコンセプトモデルが出品されるようになった

1985年 VS750イントルーダー
北米R&D在籍中の作品。ファンを獲得し25年ものロングセラー商品となった。「パーツのすべてが新設計。当時の生産技術の基準を超えていました。設計部長の理解とエンジニアの努力があって実現した、すごい仕事でした」

バイク以外の乗り物にも強い関心を持つ。「ボートだと小さなものでも7、8メーターにもなります。船外機のデザインなどもやりました」

グライダー、飛行機の趣味も継続。米国製練習機T-6のコックピットへ。ロサンゼルス(レッドランズ飛行場)

2016年 T6飛行

2016年 カワサキ飛燕公開