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第43回名古屋芸術大学卒業制作展記念講演会が開催されました

2016年3月5日(土)、愛知芸術文化センター12階・アートスペースA で、本学の卒業制作展記念講演会が開催されました。講演では、小説家の高橋源一郎氏を招き、「芸術家失格」をテーマに講演が行われました。

 

小説『さようなら、ギャングたち』(1982年)で文壇にデビューした高橋氏は、『優雅で感傷的な日本野球』『日本文学盛衰史』『さよならクリストファー・ロビン』といった作品で「三島由紀夫賞」など名だたる文学賞に輝き、テレビ出演やラジオパーソナリティをはじめ、明治学院大学国際学部で教鞭を執るなど幅広く活躍されています。

講演では、一般的に難解とされる現代美術や現代詩について、人はなぜ上手く説明できないかを、独自のシニカルな視点から考察したり、若い世代が古典文学を読まなくなった背景などについて、ユニークな体験談を交えながら紹介しました。後半では、高橋氏が愛して止まない3名の作家の作風とその生き様から、高橋氏が考える真の芸術家のカタチとその進むべき道について解説しました。

最初に、ラジオ番組で大原美術館館長の高階秀爾さんと交わした、「現代美術は難解だ」という話から、高橋氏が選考委員を務める現代詩の選考会で、詩の解釈や現代詩の良し悪しが専門家でも分からないといったエピソードを通じ、人々は芸術そのものが本当に分かっているのか?それとも本当は分かっていないのか?という哲学的な命題へと斬りこみました。

この「分かる・分からない」の答えを探るべく、デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアが語ったといわれる素粒子の性質の話を引用して、高橋氏は次のように考察しました。

――素粒子は粒子と波の二つの性質を有しており(粒子と波動の二重性)、ボーアはそれを数学的に証明した。しかし、そのことを理解できない人に対してボーアは、『この現象は数式では証明できるが、言葉では説明できない。悲しいことだが言語の限界だ』と語ったという有名な話がある。この話から分かることは、人間は実際に存在する現象でも、言葉にできることしか想像ができないのです。(高橋氏)

そのため、現代美術や現代詩などが持つ言語を超えた魅力について、私たちはそれを正しく理解し、表現する能力を持ち合わせていないことを説明するとともに、自信の小説『「悪」と戦う』を例に挙げ、違う視点で読めば解釈が変わることについても解説しました。この小説は悪に立ち向かうという設定で書かれていますが、ある読者から、「この作品は、悪と一緒になって戦う。という内容だ」と指摘された高橋氏は、改めて読み返してみると、その読者の解釈の方が適切なことに気づかされたと言います。

これらのエピソードから、作者の手を離れた作品は、常に他の人に再発見され、新たな解釈が付け加えられるとともに、その作者本人でさえ、自身の作品についてよく分かっていないことを指摘しました。また、芸術なり作家が生み出した作品について、実際のところよく分からないのが本当のところで、この分からないことを悲観的に捉える必要はなく、分からないのが普通だと考える方が自然なことを、作り手も受け手も理解する必要があると結論づけました。

次に若い世代が古典文学を読まなくなった理由についての考察では、高橋氏が教鞭を執るゼミの学生たちが、野間宏や椎名麟三といった戦後文学の著名な作家を誰一人として知らなかったことや、出演したテレビ番組で、フランスの作家スタンダールの『赤と黒』について20代の若者50人全員が、作品を読んだことも作者も知らなかった状況に驚いたと説明しました。そこで、その理由を検証するため、ゼミの学生に『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などで有名な、ロシアの小説家ドストエフスキーの長編作『白痴』を読ませたところ、学生たちは口を揃えて“面白い”と評価したといいます。

このことから、若い世代の読解力が落ちたのではなく、ソーシャルメディアや対戦ゲームなどその世代にとっての主流となる文化があり、その世界で生きる若者たちは、常にその文化に惹かれるものだと高橋氏は前置きし、「僕たちの基準からすると古典を知らないのかもしれないけど、若者たちは別のものを吸収している。それから、違う価値観を持つ若い世代の文化的な質が下がっているとも思いません。教養の秩序や持っている歴史観に違いがあるのかもしれませんが、それほど悲観視もしていません。どの世代も同じ教養を共有していることの方が気持ち悪く、世代によって教養が変化していくことこそ健全だと考えるからです。」と解説しました。そして、「古典文学を知らない人たちが主流の世界に、僕たち古典文学世代がタイムスリップしたんだと考えれば、現状がとても理解しやすい。この世界は幾つものタイムスリップによって、構成されているのかもしれませんよ。」と伝え会場を沸かせました。

講義の後半では、今回のテーマ「芸術家失格」に関連する話題へと移り、高橋氏が好きなアーティストとして、ヘンリー・ダーガーとマルキ・ド・サド、猫田道子の名を挙げ、それぞれの作家の生き様と作品について紹介しました。

アウトサイダー・アーティストのヘンリー・ダーガーは、半世紀以上もの間、たった一人で部屋にこもり、巨大な絵と物語を書きあげました。彼が死ぬ直前に偶然にも発見されましたが、世界で最も長いといわれている彼の書いた物語『非現実の王国で』は、ただただ戦争のシーンが1万ページにも及ぶ作品です。次に「サディスト」という言葉の由来にもなっているマルキ・ド・サドという小説家は、人生の大半を刑務所と精神病院で過ごし、彼の作品のほとんどが獄中で書かれたものです。有名なバスティーユ牢獄で著した『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』は、看守に見つからないようにして書いた作品で、乱交と苛めと拷問を綴ったメモが何百ページも続き、気を失いそうになる無味乾燥な作品です。そして、猫田道子の短編小説『うわさのベーコン』は、文法をはじめ、従来からの文章表現のあらゆるものが狂った不思議な雰囲気を持った特異な作品です。

こういった普通ではない作品が好きな理由として高橋氏は、「彼らの作品の側に立って見ると、他の小説はみな甘く感じられ、ヒューマンなことを良しとしている。言い換えればウケを狙っていて、ほとんどの芸術的由来なものが全部インチキ臭く見えてくる。彼らに比べればあのピカソでさえ、僕には単なるウケ狙いに見えてきます。そのため、ときどき自分自身のチューニングが狂いだしたと感じると、彼らの作品に触れることで、チューニングの調整を行っています。」と説明しました。

その特異な作品に共通する特徴を高橋氏は、「限界まで行っている」と表現しました。高橋氏が言うところの「限界」とは、もうその先は人の領域ではなく、言葉も存在せず、従来の芸術表現ではもはやない場所だと示し、これから芸術を志す学生や卒業生に向け、次のような言葉を送りました。

「作り手も含め世界中の多くの人々は、本当は分かっていないのに、分かったふりをして、言葉という甘い罠の中で理解し合っている感じで生きて行こうとする。僕はダーガーやサド、猫田といった、芸術の世界の果て(限界)まで行き、もう半歩進めばこの世界と決別するギリギリのところで作品を作り、そこから戻ってきた人こそが『真の芸術家』だと考えます。それは、一般的な芸術家では既になくなっているかもしれません。しかし、世界の果てまで独りで行き、そこでなにかを作ることこそが、真の芸術家に贈られる素晴らしいギフトだと考えます。普通に生きている人には、決して手に入れることができない価値を手にすることができる。芸術家の道は孤独ですが、芸術家を目指すのであれば、果てまで行って戻ってくる方がいい。その行って帰る旅をすることが、現在(いま)の世界に生きる芸術家の道ではないでしょうか。」

このように、芸術の道を歩みだす学生たちにとって、敢えて厳しい言葉と高い目標を示して講演会を結んだ高橋氏に、会場から大きな拍手が送られました。

 

高橋源一郎氏 高橋源一郎氏

 

講演中の高橋氏 講演中の高橋氏

 

学生の質問に耳を傾ける高橋氏 学生の質問に耳を傾ける高橋氏

 

卒業制作展を観覧する高橋氏 卒業制作展を観覧する高橋氏

 

学生と作品について話す高橋氏 学生と作品について話す高橋氏

 

同上(右は西村美術学部長) 同上(右は西村美術学部長)