名古屋芸術大学

西村正幸(にしむら まさゆき)

大学院美術研究科 美術専攻
美術学部 アートクリエイターコース
版画コース 教授

1957年
奈良県生まれ
1981年
京都精華大学美術学部デザイン科卒業
1983年
京都市立芸術大学大学院美術研究科 絵画専攻版画修了
1996、97年
日航財団「空の日芸術賞」のスカラシップでドイツに研修

学生時代から京展に版画を出展、2度の入賞を果たす。1983年の初個展以降、兵庫県立近代美術館「アート・ナウ」、関西若手作家たちによるムーブメント「YES ART」に参加、80年代の「関西ニューウェーブ」の流れを汲む作家として活躍。90年代以降は、戦争被害へ強いメッセージ性を持つ作品を発表し続ける。

1983年
リュブリアナ国際版画ビエンナーレ(旧ユーゴスラヴィア)YES ART (ギャラリー白、大阪)。・・・84年〜90年まで毎年。フレンヘン国際版画トリエンナーレ(ドイツ)
1984年
ノルウェー国際版画ビエンナーレ
1986年
アート・ナウ '86(兵庫県立近代美術館)
1987年
NEO GRAFICA (ギャラリー白)。 ・・・90年まで毎年。YES ART DELUXE (佐賀町エキジビット・スペース、東京 / ギャラリー白)
1989年
ARMS 芸術の腕(ハイネケン・ビレッジ・ギャラリー、東京)
1990年
FROM OUR HEARTS アパルトヘイトに反対する美術展 (岐阜県美術館ギャラリー)
1993年
エジプト国際版画トリエンナーレ招待出品(国立美術館、ギザ)
1994年
現代の版画 1994(渋谷区立松濤美術館)
1995年
The Tree, Part Ⅱ(Sasakawa Peace Foundation Gallery, Washington D.C. U.S.A.)
1996年
International Work-shop for Visual Artists '96 in REMISEN-BRANDE(The City Hall of Brande, Denmark)。トピカ;日本の現代美術が1100年のハンガリーに挨拶する(エステルゴム王宮博物館、エステルゴム/フェシュテティチ宮殿博物館、ケストヘイ、ハンガリー)
1996.6〜1997.3日航財団『空の日芸術賞』を受賞し、ドイツに研修。
1999年
INAZAWA・現在・未来展④こころからうまれるかたちといろ 古川清・西村正幸(稲沢市荻須記念美術館)
2000年
名古屋市芸術奨励賞受賞
2007年
「いのちを考える」“世代を超えて”〜西村正幸とともに(伊丹市美術館)。The 4th International workshop "DRAWING" in Hannover(ドイツ)

マスターtoアーティスト

作品は人なり

 版画をベースとした、絵画、立体、インスタレーションとジャンルの枠にとらわれない作品。見た目には優しげだがどれも強烈なメッセージを帯び、見る者にストレートに伝わるダイナミズムを持ち合わせている。柔らかでいて直線的な、ユニークな作品の根源はどこにあるのか。「オリジナリティって何? 学生にも言うんですが、自分の中から待ってて出てくるもんじゃなくて、絶対、人からもらったものやと。見たり、聴いたり、やったりしたことが自分の中に溜まって、全然違う人の考えなんかが自分の中でひとつになったとき、そのときに自分のオリジナリティになると思うんですよ」  作家が産み出したものには、意識的であれ無意識であれ、作家自身の考えや問題、経験などが投影されているものである。優しくも激しい作品たちの始まりの場所を伺ってみると、少年時代のことを話し始めた。

 屈託のない柔らかな関西弁で饒舌に語られる現在にいたる道のりは、興味深いものだった。スカウトが来るほどの野球少年、小学校でオペラに目覚め(悲恋もの!)作曲家を目指したこと、肩を壊して野球ができなくなったこと、目標を失い心がズタズタになった10代、キリスト教との出会い、大学でたたき込まれた自由、先生たちとの諍い、関西ニューウェーブ、伝えることの難しさ、伝わることの大切さ、版画、デザイン、吉原英雄、井田照一、山本容子……、すべてを伝えられないことが残念でならないが、これまでの人生すべてが糧になり、ストレートに作品の血肉になっていることが理解できる。「文は人なり」ではないが、「作品は人なり」ということをあらためて強く感じさせる。

 「アートの役割のひとつに、メッセージを伝えられるというのがあると思っているんです。そして、誰かのためにアートがあってもいいんじゃないか、とも思っているんです」 これまで、自分のいいたいことを表現するのがアートと考えられていたが、例えば、戦火に巻き込まれた子ども、あるいは、病理を受け入れるほかない患者、そんな誰かのためのアートも存在できるはずと考えた。誰かを大切に思う気持ち、“寄り添う心”が端緒となった作品作りもアートの一部だという。作品ごとに手法が変わることも、先ず表現したいテーマありき、の結果である。自分にできることをできるだけやりたい、そんな素直な気持ちが伝わってくる。

 「アーティストはひとりでやるものと思っていましたが、僕は早い段階で違うということがわかった。特段、鋭かったとかじゃなくって、たまたま巡り合わせでね」 大学院修了直後に開いた初めての個展で強く感じたという。「ギャラリスト、先輩の作家、新聞や雑誌の記者、ひとつの個展でもいろんな人が係わっていることが見えた」 90年代のアート界、とりわけエネルギッシュだった関西のアート界には、若手を育てようという気風が色濃くあった。その中でさまざまな経験をし、大いなる刺激を受けた。そして、次の世代を育てる立場になった。同じ経験をしたアーティストたちに、気風はしっかりと受け継がれているようだ。表現に、作品に、あるいは将来に迷ったとき、安心してぶつかっていける確かな存在。熱く真っ直ぐな心根に、晴れやかな気持ちになった。

『フランチェスコ;知らずにいた記憶(清貧)(従順)(純潔)』2011

『相応しい言葉』シリーズ 2010 各49×60㎝×5点 紙にアクリル・ガッシュ、他 撮影:山口幸一

『ハンガー・ゼロ・アフリカ#1 〜知らずにいた記憶〜』2010 230×185㎝ 綿布にアクリル・ガッシュ、他 撮影:山口幸一

『ハンガー・ゼロ・アフリカ#2 〜相応しい言葉を光の中に探す〜』2010 165×134㎝ 綿布にアクリル・ガッシュ、他 撮影:山口幸一

『Art & Eco マッチング・プロジェクト』展示風景 2010 名古屋市民ギャラリー矢田 撮影:山口幸一

『西のはずれ〜東と南と西と北と(イラク・チルドレン#78)』2007 77×64×180㎝の家型黒板4台、他 木に黒板塗料、チョークなど 撮影:山口幸一

5才ころ「たのしい幼稚園」に掲載された電車の絵

高校3年生の時の夏の高校野球大阪府予選でと投手として投げている写真

京都市立芸術大学大学院の時の研修旅行時の写真(左端が非常勤講師の山本容子、その隣が西村、右から2人目が主任教授の吉原英雄)