名古屋芸術大学

クローズアップNUA-ism

NUA-OB

南谷悠子(なんや ゆうこ)

ピアニスト

1976年
愛知県生まれ
2003年
音楽学部音楽教育学科卒業
2005年
大学院音楽研究科修了
2006年
渡仏
2007年
パリにてデビューリサイタル
2008年
マドレーヌ・ドウ・ヴァルマレット ピアノコンクール第2位
パリ・エコール・ノルマル音楽院修了
スコラ・カントルム音楽院修了
2011年
齋藤一郎指揮/セントラル愛知交響楽国と ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調を共演

2008年、仏から帰国後、結婚と出産を経て、2011年から活動を再開。現在は、企画・構成から携わる@南谷悠子の世界シリーズを開催。好評を博している。

Close up! NUA-ism

進化する「名古屋芸大」のDNA

ラヴェルがいたから自由になれた

 よく笑う。表情豊かに笑うようすは、心の距離をすっと縮めてくれた。しかし、一児の母親でもある演奏家は、自信あふれる表情とはうらはらな言葉を口にした。「私は、回り道ばっかりなんですよ」

 小学生の頃から習い事で始めたピアノだったが、音楽の道へ進もうと思っていなかったという。高校受験になっても、自宅から通いやすいという理由で近くの商業高校を選び、音楽とは縁遠い生活をしていた。ピアノは好きで続けていたが、まだ“好き”以上のものではなかった。ピアノには光るものがあったのだろう。音楽教室や学校で勧められ、先生につくことになった。それが本学、演奏科の山田敏裕教授だった。そしてそれは、大きな出会いとなった。「山田先生に教わって『好きでやってるだけじゃ、上手くならない』ということがわかりました。すごく単純なんですけど(笑)」 厳しいレッスンは心に響いた。「私に合っていたんだと思います。火が点いたというか、芸大に行こうと決めました」

 それからは一筋に……、と行かないのが人生の面白さ。演奏学科に進まず、音楽教育学科に入学する。「歌もやりたかったんです。それに音楽教育にも興味があったので、音楽教育学科を選んだんです」 声楽は、技術の世界である。歌は、いくら歌心があっても、技術が伴わなければ歌えない。歌はすぐに行き詰まった。「本当に行き当たりばったりで、優等生のコースじゃないんです」

 歌をあきらめ、今度こそピアノ一筋……、やはり、そうはいかなかった。「ピアノに関しては一所懸命でしたけど、方向性が決まったのは大学院へ進んでからですね」 音楽教育学科を卒業し、それでも自分には何かもの足りなさを感じ、山田教授の下で研鑽を続けた。「その頃は、まだ演奏に壁みたいなものを感じていました。がむしゃらに練習してましたけど、音楽と仲良くなれていなかったんだと思います」 大学院を修了し、名古屋市の小学校で音楽の講師として職業に就いた。子どもたちに慕われ、教師の道も悪くないと感じていた。しかし、何かが足りなかった。「私が一番したいことではないんじゃないか、という思いがありましたね」 そして渡仏を決める。

 「私がフランスへ行こうと思ったのは、ラヴェルのせいなんです(笑) 心から、こんなにも共感できる曲があったんだと感じました。人間性ももちろん、子どものような透き通った音楽に夢中になりました。演奏していて音楽と一体になれる気がしました」 名古屋音楽学校が4部屋所有するシテデザール(音楽・絵画・彫刻などの芸術家にパリでの研究活動のために宿泊施設を提供することを目的に設立された財団)を利用することができた。エコール・ノルマル音楽院、スコラ・カントルム音楽院の2つの学校に通った。「ラヴェルが住んだ街。そこのものを食べて、フランス人の先生と話してレッスンを受けて、たぶんそれがすごく大事だったんじゃないかと思います。フランス人ってこういう生活なんだ、言葉を学ぶことでこういう思考なんだと、フランス人のアイデンティティみたいなものを肌で感じて変わりました」 壁は消えた。自分のイメージどおりに弾けないもどかしさを常に持っていたが、パリが変えてくれた。「音楽というのはもっともっと楽しいものなんだ、自由なものなんだって気づかされました」

 結婚、出産というブランクを経て、昨年、再びステージに立った。大好きなラヴェル、上手くいかなかったら人前で弾くのは辞めようと密かな覚悟でステージに上った。演奏することを心から楽しんだ。オーディエンスから多くのエネルギーと喜びを受け取った。そしてたどり着いた。「私はこっち側の人間だ。私は離れられない」

デビューリサイタルのポスター。

お世話になったイヴ・アンリ氏と。ニースにて。