矢部俊一(やべ しゅんいち)
陶芸家
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中学生の頃から彫刻家に憧れ、本学彫刻科に入学。卒業後に、祖父 山本陶秀(人間国宝)、父 矢部篤郎(日本工芸会正会員)の指導を受け、独立。備前焼の伝統を受け継ぎながらも現代的な作品を発表している。
伝統と前衛と
岡山駅から、クルマで15分程度のところにある“スタジオ”にお邪魔した。備前焼といえば備前市伊部だが、そこから30kmほど離れた岡山市内のスタジオが活動の拠点となっている。聞けば、備前の作家は300名にものぼるそうで、その中に埋没してしまわないように、また、作家同士の内輪な関係からも少し距離を置きたいという理由で、伊部から離れているのだそうだ。和して同ぜず、ということなのだろう。スタジオは、倉庫を改造したギャラリー兼自宅で、1階部分には工房も備える。2階のギャラリーに案内されると、壁の棚に、端正なたたずまいの焼き物が並べられている。いずれも備前焼特有の赤で、深く繊細な色合いをたたえている。そして、ギャラリーの奥には、複雑な曲線と滑らかな面で構成された、しかし紛れもなく備前焼のオブジェが飾られ、確かな存在感を放っている。古典的な作品と先鋭的な作品が、備前という共通項で結ばれ不思議な調和を見せている。茶碗を指すと「こっちの仕事は、自分がこういう家業のところに生まれた責任みたいなもの、奥の作品は、自分との戦いというか、まったく別の意識で作っているものなんです」という。
彫刻家になりたいという気持ちで芸大を目指した。東京で浪人生活を送り、本音の部分では東京の大学に進みたいと考えていた。しかし、至らず本学の彫刻科へ進む。「はじめは、仮面浪人して、もう一度、東京の大学を受験し直そうかと思ってましたよ。でも、入学してすぐ、つまらないことで上級生と大喧嘩して、服がビリビリになるほどの殴り合いですよ。そういうことがあってから、かえってかわいがってもらえるようになって、学校に馴染みましたね」 学生時代を過ごした本学と名古屋の街には格別の思いを寄せるが、東京への気持ちは消えたわけではない。「東京に忘れ物をしているんです。忘れ物を取り返すことが、作品を作るモチベーションですね」 備前の技法を駆使した彫刻作品は、そんな気持ちから生み出されている。
海外での評価を伺うと、面白い答えが返ってきた。「大学で教わる絵画でも彫刻でも、西洋美術がメインですが、西洋のものを取り入れてそれをそのまま海外へ持って行っても、評価されにくいんです。あっちは本家本元ですから、もっと凄いものがあるし、これまで蓄積された膨大な作品があります。西洋のものを持って行くのではなく、日本の美術を海外へ持って行くということが一つの流れになっています。日本というもの自体がコンセプトなんです」 そして、答えに窮する。では、自分は何なのか。西洋的なものを捨てた時に何が残るのか。すべて引き算したときに、残っているものから自分を再構築するような作業に取り組んでいるという。 「茶碗の仕事は、シャッターをたくさん切る写真の撮り方に似ていると思う。その中からいいものだけを選び出す。オブジェの方は、入念な準備をして完全に作り込んで、ワンカットだけ撮るようなイメージで、対極にあるように感じています」
最近の彫塑コースのことを気にかけながら、後輩達へ言葉をくれた。「どんな仕事でも当たり前ですが、自分一人ではできません。いろんな人がいて、自分がある。なんにせよ一生懸命やって、最終的に自分のところに帰ってくるくらいのつもりで、人間力を高めるなんていうと、ちょっとおかしいかもしれませんが、そういうことではないかと思いますよ」 加えて「少年漫画と同じで、どんどん新しい敵が出てくる(笑)。それは自分がレベルアップしたから。結局、戦っている相手は自分自身ですよ」と語ってくれた。最前線で戦い続ける当事者は、内包するエネルギーをさらに大きな輝きで見せてくれるに違いない。