三枝 優(さいぐさ まさる)
美術学部 教授
日本彫刻会・愛知芸術文化協会会員、守山美術振興会役員
<個展>
受け継ぐもの
アトリエになっている研究室にお邪魔した。作業ズボン姿が、衰えることのない創作意欲を示すようで、爽快である。部屋の中には、等身大の女性像があり、その周りには、30cmほどのテラコッタの像、レリーフ、具象ではなくスマートにデザインされた動物や魚のガラス作品などなどが無造作に置かれている。そして、数々のヘラや工具の隣には、どんっとガラス用の電気炉が鎮座している。「ガラスの先生からすれば不純物が混ざるって怒られちゃうかと思いますが、これでテラコッタも焼いています。焼き物も専門じゃないですから、陶芸の技術的なことをほかの先生から教えてもらいながらやっているんですよ」 具象彫刻と意匠化されたオブジェたちの源流を探るべく、彫刻の道を選んだ理由を尋ねてみた。「いい加減に聞こえるかもしれないですが……」と前置きしつつ「父親のやっていたことを見ていたことが大きいですね」という。
御親父は、本学名誉教授でもあった三枝惣太郎氏。1935(昭和10)年に東京美術学校彫刻科(現・東京藝大)を卒業し、戦後は名古屋製陶株式会社(戦前は日本陶器(現・株式会社ノリタケカンパニーリミテド)と並ぶ大手陶磁器メーカーで、洋食器を世界中へ輸出した。1969(昭和44)年に会社は解散。名古屋製陶の鳴海工場が独立し現在の鳴海製陶株式会社となっている)の原型室に勤めた。会社解散後の1970(昭和45)年からは、創立されたばかりの本学で美術学部教授として教壇に立ち、定年を迎えるまで後進の育成に尽力した。学生の頃から日展に出品し、名古屋製陶に勤めている時代も仕事の傍ら作品作りに励み、同時に会社の部下達に彫刻を教えていたという。惣太郎氏は「デザインをやる人間も絵を描く人も彫刻をやらなければだめだ」という信条の持ち主であったそうで、彫刻、立体に対する意識に確固たるものを持っていた。そんな御親父の作品に取り組む姿勢を見ているうちに、彫刻家への道を志すようになったのだろう。「子供の頃は、音楽に興味があって音楽の方へ進みたいと思っていましたよ。ところが、高校を受験する時になって成績が芳しくない(笑)。担任の先生にお説教を受けているときに助け船を出してくれたのが美術の先生でした」 旭丘高校美術科に志望を決めたのは中学3年の夏を過ぎてから。それから、始めてのデッサンに取り組んだ。「ありがたかったのは、親父がデッサンを指導してくれたことなんです。2ヶ月ほどの短い間だけだったんですが、なんとか試験を乗り越えることができました。発表を見に行ったら自分の番号があって、もう、天にも昇る気持ちで、購買で校章を買って帰りました(笑)。僕の出発点はそこですよ」 高校では、父親を見習うように、ごく自然に彫刻を選択するようになった。
「自分としてはどうしても東京に行きたかった、浪人はしたくなかったですし。なんとか親父を説得し学費を出してもらった」 高校を卒業し武蔵野美術大学へ進学した。時代は、学生運動真っ盛り、70年安保で揺れていた。三枝氏が2年生の頃から授業もままならなくなり、翌年は1年間休講、大学側の要請で機動隊が校内に入りロックアウト(学園封鎖)された。「自分としては、学生運動は『本当じゃないな』と感じていました。やっていることに賛同できませんでした。いやな時代だった思う」という。ノンポリ(非政治的)というより、自分のことや作品作りで精一杯だったのだろう。ちょうどその頃は、日本の彫刻界は多様化し始めた頃にあたり、抽象彫刻に加え、ステンレスや樹脂、石彫など、さまざまな素材の模索と探求が行われていた。多くの学生は、新しい現代彫刻へと向かったという。そんな中「学生時代は『彫刻はこうあるべし』とかたくなに信じ込んでいるところがあり、具象をずっとやっていましたね」 大学を出てからも、作家になるべく東京に残り、さまざまな職業に就きながら、作品を作り続けた。「企業に就職する気にもならなくて、まず食べるための仕事を、とにかくできることを肩ひじ張らずにやっていこうと思いました。トラックの運転手や樹脂の制作会社……。自分を試すつもりもあったんですが、失敗ばっかりでしたね、給料を差し引かれるようなことばかりで(笑)。今にして思えばいい社会勉強でしたよ」 肉体労働と作品作りの生活が始まった。職業を変えながら、東京から名古屋へ場所も移ったが、作品は作り続けた。
三枝惣太郎氏は具象彫刻のほかに、置物や花器、香炉など、日常的な作品も数多く手がけている。戦前からこうした取り組みを行っており、個展では具象彫刻と販売を目的とした小品が並べられて展示されていた。しばしば、こうした在り方は、批判されることもあったという。当時の美術の評価では、こうした考え方は受け入れ難いものだったのだ。しかしながら、周囲の雑音に捕らわれることなく、こうしたスタンスを惣太郎氏は貫き通した。時代は変わり、現在では、こうした美術への取り組みは自然なものになった。そして、三枝氏がごく自然にこうしたスタンスを惣太郎氏から引き継いでいることは、研究室を見渡せば即座に理解できる。
「現代彫刻の分野が大きくなっていますが、具象彫刻がなくなるわけではありません。なくしちゃいかんな、と思っています」 聞けば、純粋な具象彫刻に取り組んでいる大学は、現在では本学と国内に数校、数えるほどしかないとのことだ。引き継いで行かなければならないものがここにある。
作品作りで大切にしていることは?
「自分がどういう意図で、これを作ろうとしているのか、当然、作品の出発点が大事。でも、作っているうちに変わってくる可能性もあります。一貫性がないのかな(笑)。とにかく、いつも幅広く作って行きたいと思っています」