マスターtoアーティスト
澤脇達晴
さわわき みちはる
音楽学部 教授
- 1950年
- 静岡県生まれ
- 1974年
- 愛知県立芸術大学音楽科卒業
- 1977年
- 東京芸術大学大学院音楽研究科修了
- 1978年
- 静岡県音楽コンクール 第2位受賞
- 1984年
- 日伊コンコルソ 第1位「シエナ大賞」受賞
- 1989年
- ニッカバリトン賞 第2位受賞
- 1990年
- 愛知県名古屋市・岡崎市においてソロリサイタル
- 1992年
- 渡米、インディアナ大学客員研究員としてヴァージニア・ツェアーニ教授の下で研鑽
- 1993年
- インディアナ大学においてゲストリサイタル出演
- 2001年
- オーストラリア、シドニー音楽院において名古屋芸術大学との交換教授として声楽指導を行う
- 2004年
- 名古屋市芸術奨励賞受賞、パチンコ大衆文化賞受賞
- 2005年
- 受賞記念オペラ公演「BENKEI」を名古屋にてプロデュース・主演
1980年より、名古屋演奏家ソサエティー代表として各種コンサートやオペラ、オペレッタを企画
藤原歌劇団団員
日本演奏連盟会員
名古屋演奏家ソサエティー代表
福山シティオペラ会員
岡崎音楽家協会会員
歌い続けて
音響と視覚と言語、この3つを組み合わせて表現されるのが総合芸術である。現代でいえば舞台や映画、映像作品になるが、その原点といえるのが「オペラ」である。人類が電気を使えるようになる以前、音響装置や照明すらない時代から上演されてきた。オーケストラの演奏と人間の声、それだけで観客を魅了する。オペラ歌手は、マイクを通さない生の声だけでオーケストラに対峙し、劇場空間を声で満たし、身体を使って感情を表現し、さまざまな役を演じる。オペラ歌手には、演奏者、コンサートマスター、あるいは指揮者とも一種異なる才能が求められる。声が出ることはもちろんだが、それ以外に人を魅了するようなスター性、日本語でいえば“華”がなければいけない。それだけにオペラ歌手というだけで、天賦の才に恵まれた、そしてそれを鍛え上げてきた、特別な存在といえるのだ。
照れたような笑顔で話し出した。「指揮者になりたかったんですが、高校のときピアノを見てもらった先生に『そんなレベルじゃとても指揮科なんかには入れない。もっと弾けないと無理!』といわれ、ショックでしたね。でも、音楽が好きだったから、どうしても音大に入りたい。それで声楽科なんです(笑)」 音楽との出会いは、小学生の頃の鼓笛隊にさかのぼる。中学に入るとブラスバンド部へ入部、フルートを担当した。「しっかり練習しましたね。フルートをずっとやっていたんですが、上級生になると持ち回りで指揮をやるんです。自分の番が来て、初めて指揮を経験しました。それからですね。指揮が好きになり、できたら指揮者になりたいなと思っていました」 ピアノを習い始めたのは中学2年になってからというから、音楽へ向かう気持ちの高まりに合わせ行動するタイプなのだろう。指揮者への憧れの気持ちを抱きつつ高校へ進学、ピアノの練習も続けていた。「高校になって、友人から音大に行きたいならいい先生がいるということで紹介してもらったのが女性のピアノの先生でした。わけもわからずそこへ行ってピアノを聴いてもらいました」 そのときの言葉が、冒頭の厳しい指摘だった。無理といわれても音楽の道に進みたい、希望を伝えた。「中学に入ってから始めたピアノで追いつくのは難しいですけど、声楽なら始めるのは大抵高校生になってからですから。そのピアノの先生が、いい声楽の先生がいるからと紹介してくれました」 そうして高校2年から声楽を習い始めた。
「受験のための生徒がたくさん来ていて、みんな歌が好きで合唱をやっていたりとか、すごく上手い人ばかりでした。自分といえば、それほど歌に思いがあったわけでもないので、なかなか上手くなれずにいましたね。こんなところへ習いに来ていていいのか、場違いではないかと、そんな気持ちにさいなまれながらやっていた覚えがあります」 それでも練習を続け、高校3年の秋を迎えた頃には少しは歌えるようになってきたという。「みんなからも上手くなってきたといわれて乗せられて、大学を受験しました」 一浪を経て、愛知県立芸術大学へ進んだ。
「大学へ入ってからは歌のことしか眼中にはなかったですね。でも、いざ大学に入ってみると、周りは歌をなんとか上手くしたいという人ばかりで、自分とは始めた動機が違いすぎましたね(笑)」 1年、2年と過ぎ、3年になってやっと声が出始めたという。「かなり悩みながら一生懸命やっていましたね。いろいろなことを試したりしていました。声楽は、いい曲に巡り会って伸びるということがあるんです。自分の声に合う曲に当たると、急に歌えるようになるんです。僕の場合、モーツァルトの「フィガロの結婚」の「伯爵のアリア」をやったんですけど、これがちょうど自分の声にぴったり合って、それから何かいい感じになったように思います」 大学卒業後、東京芸大大学院に進み、修了後、本学の音楽科講師として勤め始める。
学生に教える身になったといえども、まだ大学院を出たばかりである。経験も少ない。そんな中で出会ったのが、本学名誉教授の津田孝雄、中島基晴(守雄)両氏であった。「津田先生と一緒にオペラの授業やることになって、大変いろいろなこと、これが本当のオペラだといってもいいようなことを教わりました。中島先生からは発声についてですね。先生たちの影響をかなり受けました。生の公演というか、建て前でない音楽の本質について知ることができたように思います。オペラのやり方というんでしょうか、持っていき方を知りましたね」 津田氏が演出する公演に、舞台監督や演者として付き添い、経験を重ねていった。
こうした経験は、演出にも生かされている。近年は、オペラの企画・演出を数多く手がける。「ほかの演出家ができないようなアイデアを、と思ってやっています。ほかの人がやらないようなことを考え、予算がない中でもないなりにできると、そういう演出で喜ばせたい。そう思っています」
身体一つで演じる声楽だけに、日頃の鍛錬とコンディションの管理には敏感になる。年齢を重ねるごとに、それまでとは違う発声の技術も必要になる。「これまでに国内、海外合わせて10人くらいの先生についてきました。その先生たちのことを思い出してやっています。最近は意識してお腹を使うようにしています。イタリアで教わったときの先生のお腹の使い方を思い出したりしながらね。指導にも役立つんですよ。しっかりと身体を使うことを忘れずにいれば、70歳を超えても続けられるんじゃないかと期待しています」
「舞台に立つと、上手くいってるときは、本当にお客さんの目がぐっと集まってきます。熱い目線、堪らないですよ。一緒に演ずる仲間のいろいろな人情があって、お客さんもいろいろな人がいていろんな人情がある。そういう人たちが一緒に“情”を分かち合うというか、一緒のものにできれば素晴らしいことだなと、最近は特にそのように感じています。僕の歌で、一緒の気持ちでいてくれたら嬉しいなあ。そうなっていれば、なにものもいらない! そんな感じですよ」 年齢とともに身体は変化し、技術も変化する。演出も時代に合わせ変化してゆく。しかし、音楽の醍醐味、音楽の楽しさ素晴らしさは変わらない。変化しながら変わらないものを追い求め続ける。古典的であり現代的な事柄でもあり、芸術のどの領域にも変わりがないことを思い起こす。
「先のことを考えれば、どの分野でもずっと先があり深いものがあります。自分がやろうとすることが発見できたら、先のことよりも、自分がやろうと思った取っ掛かりを大事にして、すぐに結論を出さないでやってもらいたいなと思いますね。ひょっとすると結論は 40年後、50年後になるかもしれないけど、やっていって欲しいですね」 現役であり続ける姿勢は、芸術は生涯をかけるに値することだと教えてくれている。
安城音楽教会 第14回音楽セミナー『オペラと私』 2016年5月
オペラにかかわってきた40年と、詩人の恋から「美しい5月に」、フィガロの結婚から「もう飛ぶまいぞこの蝶々」、カルメンから「闘牛士の歌」などを披露