- 1989年
- 愛知県生まれ
- 2007年
- 音楽学部 音楽文化創造学科 サウンドメディアコース入学
- 2009年
- ジャズポップスコースへ転科
- 2011年
- 音楽学部 音楽文化創造学科 ジャズポップスコース卒業
音楽理論を野々田万照氏に師事、演奏技術をカルロス菅野氏、美座良彦氏、ルベンフィゲロア氏に師事。 安定したビートとパワフルなプレイ、演奏を心から楽しむというスタイルで、共演者からの信頼も厚い。 アーティストのサポート「髙橋真梨子withヘンリーバンド」や「Nagoya Groovin' Summer」「YANSA21(高山市)」など様々なイベントへの参加、中高生のコンサートでのゲスト演奏等ミュージシャンとのセッション、「野々田万照&ゴージャス☆モンキーズ」などへの参加、ラテン音楽を少しでも身近なものにしたいという想いで立ち上げた自身のラテンバンド「B-Style」「B-Style Big Band」等、ジャンルを問わず活動中。
死んでもいいから好きなことをやりたい
「大学を卒業した時点で、まず絶望しました。スケジュール帳が4月から真っ白なんですよ!(笑)」 豪快に笑う姿、愛嬌ある風体と人好きする口調、冗談めいた言い方だったがフリーランスになって生きていくことの厳しさを感じさせた。アマチュア時代とプロになって感じる違いを聞いてみたところ、最初に出たのが冒頭の言葉だ。「アマチュア時代は、大学のコンサートがあって、その前にリハーサルがあってと、スケジュールが埋まっていたんです。それが4月からは真っ白。要は、学校の仲間としか音楽のことをやっていなかったってことです。そこで、『俺、やっぱり勘違いしていたかもしれない』と気付かされました」 プロとして活動するなら、自分の仲間内だけの狭い範囲で音楽をやっているのでは駄目だと感じ、自分を知ってもらう努力を始めた。「色々なライブハウスのセッションに顔を出したり、大学の先生を頼って一緒にバンドで出たりを続けました。そういうことをしていくうちにライブハウスのオーナーさんやお客さんが僕のことを知ってくれるようになり、関係がどんどん広がりました。それでも、パーカッションの仕事だけで成り立つようになったのは、3、4年経ってからじゃないかと思います」
幼い頃からピアノを習い、金管バンドのあった小学生時代はトロンボーンを吹いていた。打楽器との出会いは中学生になってからだという。進学した中学にジャズ・オーケストラ部があり入部、トロンボーンを希望した。ところが顧問の考えで、ドラムに任命される。初心者ばかりのジャズバンドで、少しでも素養のある者をリズムセクションに振り分けるというのは非常に合理的な考えだと分かるものの、任される生徒は大変である。「最初は、手足がそんなに動くわけじゃなし、バラバラじゃないですか。何で俺がこれをやっているんだろうと思っていましたが、少しずつできるようになっていくと楽しいんです。すぐに楽しくなりました」 高校になると、東海地区の高校生ビッグバンドFree Hills Jazz Orchestraに参加すると同時に、学校の部活でも吹奏楽部に入った。Free Hills Jazz Orchestraではラテンパーカッションを始め、部活ではトロンボーンとユーフォニアムを担当と、音楽漬けの高校生活を送る。「学校の吹奏楽部は強くなかったので部員が足りなくて 、コンクールのときは、一曲はユーフォニアム、別の曲ではパーカッション、みたいな感じで掛け持ちでした。3年になると、スコアを読むことが好きだったので、指揮をしていました」生徒会活動もやっていたというから人を惹きつけるものがこの頃からあったのだろう。
大学は、演奏家を目指して……、となりそうだがそうはならず、本学のサウンドメディアコースへ入学する。「両親の要望でした。手に職の付くところに行けということでした。レコーディングとPAを学んでいましたね。安定した職業に就かなきゃいけないと考えていました」しかしながら、本学のカリキュラムを利用してサウンドメディアコースで学びつつ、パーカッションも続けていた。予想外だったのは、パーカッショニストの数が少なかったこと。野々田万照氏の授業を受け、セッションをしているうち、色々な場所から一緒にやろうと声がかかるようになった。演奏者の絶対数が足りなかったのだ。サウンドメディアコースにいながら、たくさんの演奏会に出演するという状態になっていった。数多く演奏会をこなすうち、考えも徐々に変わっていった。「3年生になるとき『やっぱり、俺、演奏をやりたいな。演奏で喰っていきたい』という気持ちになっちゃったんです。なんというか根拠のない自信みたいなものもあって、死んでもいいから好きなことをやりたい、という気持ちになってしまったんです」
両親は大反対だったが、3年からジャズポップスコースへ転科。演奏を突き詰めるだけでなく、プロになることを念頭に練習とライブに励んだ。「サウンドメディアの長江先生は、僕がパーカッションをやりたがっているという気持ちに気付いて『やりたいのならやったほうがいいよ』と言ってくれました。長江先生と野々田万照師匠には本当に感謝です」
反対していた両親だったが、活動を続けるうちライブを見に来てくれるようになったという。「30歳までに芽が出なかったら辞めなさいといわれていました。そういいつつプロになることを認めてくれたのかなと勝手に解釈しています。ライブに来てくれるのは、認めてくれたのか、あきらめたのか、どっちかですね(笑)」
プロとしてやっていくためには、どんなことが必要かと尋ねると、しばらく考え込んだすえ「多少は喰えなくてもしょうがないという覚悟が必要。簡単には喰えない、それでも、あきらめない、そして好きでありつづけることですね。中途半端にプロを目指すっていうのでは絶対に不可能! それからお客さんの前に立つ以上、そのときの最大限を必ず出せるようにしておくこと」 曲を支えるリズムを作り、彩りを加えるパーカッション。演奏するプレイヤーは、プレイも人柄もホットなのだ。