Master to Artist

39号(2017年4月発行)掲載

髙木直喜
たかぎ なおき

音楽学部 教授

1952年
愛知県生まれ
1975年
名古屋芸術大学音楽学部器楽科卒業
1985年〜2010年
セントラル愛知交響楽団に在籍(旧ナゴヤシティ管弦楽団)

故永長次郎、播博、諸氏に師事。
25年間に亘りセントラル愛知交響楽団に在籍
リサイタルを8回、ジョイントリサイタルを4回開催、協奏曲等オーケストラの共演多数

1997年9月
韓国馬山市で開催された現代音楽祭に招かれ演奏
2012年11月
ルクセンブルク、モンダルカンジェ市で行われた東日本大震災のチャリティーコンサートで演奏し、共に好評を得る

日本フルート協会中部地区代議員、名古屋笛の会相談役顧問、全日本学生音楽コンクール審査員

音楽は終わらない

 2013年の春、それまでの非常勤から教授に就任されたとき、本誌の記事のため同じ研究室でお話を伺った。尊敬するマルセル・モイーズの写真も変わらない。そして、お話の愉快さと思いの熱さも変わっていなかった。開口一番、大学の改革について切り出した。「ある大学の先生が、名芸大の音楽学部はなくなるんだということをtwitterかFacebookか何かに書き込んだらしくて、酷い話だと思うんですよ。確かに、外から見ると名前が変わってしまうからなんでしょうが、はっきりと実技関係のところは専門性を追求することに何も変わりない! と打ち出して欲しいですよね」 とはいえ、ご本人にBORDERLESSのことについて伺うと「僕が専任になったのが61歳のときですし、それまでオーケストラ以外の組織の経験もありません。大学は、多くのことを改革してきたわけですし、最近になってやっと色々なことがわかってきたところ、全然付いていけないですよ。必死ですよ(笑)」と笑わせた。もっとも、わからないといいつつ演奏系以外のコースも高く評価している。「卒業生として正直なところ、音楽総合やエンターテインメントコース、どんな意味があるのかと以前は考えていました。ところが、実際の学生たちと面談していると、将来を見据えた発想で出発しているということを強く感じるようになりました。2017年度からは、もっと幅広く選択できるということじゃないですか。一所懸命きちんとやる学生にとっては魅力的ですよ。これは凄いことです」

 1971年入学、本学2期生の大先輩である。当時、本学は美術学部と音楽学部の2学部だけが設置されていた。大学に入ったときには、1年上に1期の先輩がいるだけで、1年生と2年生の2学年しかまだ学生はいなかった。校舎は、現在の5号館一つだけだったという。「学校のまわりは田んぼや畑ばかり。4号館のところに建物があって、学生は当時、明治村と呼んでいた。道路を挟んだ向かいに管楽器の練習場があって、それは馬小屋と呼んでいた(笑)。そんな状態でした。学生の人数が少なくてオーケストラを編成するにも、人も楽器も足りていない。副科の学生を集めてなんとかやっていましたが、名大、南山、名工大、そちらのオーケストラの方がいい音を出していました。何もなかった、苦労しました。馬小屋のところで練習していると、幼稚園の子どもたちがグラウンドで行進の練習をしている。先生たちが、手拍子でリズムを取っているので、学生達でマーチを吹いてあげたりしていました。学生は少なかったけど、いい雰囲気は今も当時も同じです。ただし、和気あいあいとしたものはいいけど、本来大学でやることは別のことでしょという思いはずっと胸にありました」 思うように音楽に打ち込むことのできない歯がゆさと同時に、現在の本学に通じる自由さ、そして伸び伸びとした様子が伝わる。

 音楽の道を選ぶことを両親は理解してくれたという。中国へ出征した父親や、戦争経験者である親の世代からは、好きな音楽を続けていける時代の到来は何よりも代え難いものだったに違いない。音楽を続けることの代わりといっては何だが、教職課程を履修することを父親から命ぜられた。「教員試験の一次試験に何とか受かり、当時は教育委員会からの家庭訪問がありました。担当の方が自宅に来て面接と意思確認みたいなことをしたのですが、そこで母親が『この子は、教員になる気はありません』と応えた(信じられない!)(笑)」 断ったものの、非常勤講師で1年間、高校で教えたことがあったという。「1クラス何十人と生徒を見ることには自分は向いていないと悟りました。教諭という場所には戻らない、フルートを一所懸命やるしかないなと覚悟しました。そうしてやってきて運良く現在に至っているというだけですよ」 クラスの生徒を1年間、1人の落伍者も出さず、それを何十年も続けていく自信がなかったと述懐するが、教えることの責任を強く感じたのだろう。その思いは、今も変わっていないに違いない。

 「僕が学生の頃は、授業やレッスンをたまにサボったこともありました。でも、今の学生は、皆、真面目ですよ」といいつつ、気になっていることを話した。「学生達にウィーン国立音楽大学の教授のレッスンを受けさせたんです。その後、その先生と食事しながら話したんですが、ある学生が無表情だというんです。日本人は苦手ですよね。緊張していたんだと思いますが、ちゃんと表現して伝えることが大事ですよね。日本人の奥ゆかしさみたいなものは、なかなか外国人には通じない。言葉はできなくても表情や身振りでもいいですから、何かきちんと伝えないと失礼に当たる。そして、それが演奏につながっていくことだと思います」 自分自身がレッスンを受けていた頃を思い出し、有名な先生のレッスンを受けても緊張して1/10も頭に残っていなかったと笑わせる。でも、そうしたことを続けること、あきらめないことこそが肝心だという。「よくあるのが『自分は大したことない』と思い込んでいること。それは違うだろうといいたいです。人間なんてやればいくらでも伸びる。己の力を信じて努力を続ければ必ず結果は付いてくるものです。私自身、劣等感の塊でずっときました。プレイしたり教えてきたりする中でいろいろなものを吸収してきて、それを伝えてきました。結果的に教えた子たちの中から、国内外のコンクールでも優勝、入賞するような子が出てきたり、日本の著名なオーケストラの首席奏者に若干26歳でなった者、他大学の准教授もいます。それは自分がやり続けてきた結果がそういったことに結びついてきたと思います。自分の体験も含めて、あきらめないでやり続ければ、必ず結果はついてくる。そういうことを信じて欲しい」 大学で演奏を学ぶことは、専門性の追求にほかならない。一つのことに専心しその道を究めることを目的とするが、一つを目指せば目指すほど、他の世界について知っていることや幅広い視野が必要になるものである。「私は留学経験はないが、優れた演奏家になるため海外に留学するのは、単に技術を学ぶだけではないと思っている」音楽が生まれた場所の風土を知り、食べ物を食べ、生活を肌で感じるために赴くのである。背景と文化を知ること、多くの先達から教えを受けることが、自分の専門に普遍性をもたらす。演奏という専門性の追求は、案外、BORDERLESSという本学改革の考えと一番近いところにあるのかもしれない。

 2015年からは、フルート専攻の学生と卒業生で編成されるフルート合奏団を率いる。「現役の学生と一番上は学生と自分の親と変わらぬ年齢の卒業生が一緒になって演奏会をやっています。こうしたことが非常にいいことだと思っています」 一つのことに専心していながら、同時に専門の幅を広げて広い視野を得ること。こうしたことが求められているのではないだろうか。

2〜3歳の頃。居合道など武士道に生きていたとても厳しい父親の影響かも。この後、刀がフルートに替わるとは!!

本学4年、オーケストラの定期演奏会

大学を卒業したころ

1975年、本学卒業式後の謝恩会にて

ヴェンドレルの「AUDITORI PAU CASALS」演奏会場。
2013 年7月16日〜26日、フルートオーケストラで、スペインへ演奏旅行へ。歴史あるヴァレンシア国際吹奏楽コンクール委員会からの招待とバルセロナ近郊のリゾート地、ヴェンドレルで開催されたカザルス音楽祭への参加が目的。このときが指揮者としてのデビューとなる。

ヴァレンシア国際吹奏楽コンクールの会場「PALAU DE LA MUSICA」は非常に響きのいいホール。「演奏後、スタンディングオベーションが沸き起こり非常に感動しました。最高の思い出です」

フルートオーケストラメンバーと記念撮影。「私の隣の方は、演奏会にわざわざ来てくださったバルセロナ日本領事館の首席領事さんです」

スペイン演奏旅行中、ヴァレンシアの海岸で

「スペイン演奏旅行にドイツ留学中の卒業生二人が駆けつけてくれました」

教え子たちを海外へ連れ出す労を厭わない。先日も台湾へ。「旅行中は音楽の話は一切なし!」とはいうものの、見聞きすることのすべてが音楽につながる

オープンキャンパスでの指導風景。楽器を始めるのに遅すぎることはないという。「卒業生で19歳からピアノを始めた学生がいます。今ではコンクールで入賞するレベルになっています。ピアノでそれができるのなら、フルートでも絶対にできるはずです。希望を見失わないことが大切です」