深めていく……
優秀な成績で大学院を修了、間もなくコンクールでの受賞、本学助手として後輩の育成にも務め、ピアニストとして順風満帆。経歴を伺う限り、そう見える。努力家であることは間違いないだろうが、さぞや才能あふれる、天性に恵まれた方なのだろうと想像した。しかし、お話を聞いてみれば、それは単純な見方でしかないとわかった。
「2年が終わって3年になる前、春休みですね、手を痛めて1年休学してるんです。親指の腱鞘炎、ド・ケルバン病っていうんですけど、レッスンを受けられるというか授業を継続できる状態ではなくなりました。要領も悪かったんですけど、理性と感情のバランスが非常に悪かった。今思えば、なるべくしてなったなと思います」
本学の音楽教育OGである母親の手ほどきで、幼い頃からピアノを始める。しかし、ピアノを真剣にやろうと考えてはいなかったという。「高校は普通科へいきました。人生の価値基準というのが、勉強していい大学に入っていい職業に就けばいいと思っていました。高校に入って勉強しているうちにやっぱり自分がやりたいことを勉強する方がいいだろうと思うことがあって、それから自分がやりたいことを探しました。そうして、音楽が好きだということに気が付いて、高校2年になってから、ピアノを真剣にやろうと思いました。それまで先生といえるのは母だけで、そのままでは音大などとても無理だったので、母が大学時代にお世話になった岡由美子先生に相談しました。普通なら断られてもおかしくないですよね。そのときはわからなかったですけど、今思えば、急なお願いに門を開いてくれたことをすごく感謝しています」 一途な性格もあって、がむしゃらに練習した。なんとか受験にも間に合って、本学に進んだ。
「よくわからないまま音大に入ってしまいました。周りには小さい頃からやっている子たちがたくさんいました」 通常、周りが皆、上手く見えコンプレックスを持つものだが、そんなことはなかった。「フランクな学年というか仲良く和気藹々としていて、音楽高校から来た子たちが、わからないまま来た子たちを率先して引っ張っていってくれました。私は、皆、すごい人たちだと思ったから、なんとかしてついて行ってやろうと、逆にちょっと攻撃的というかそんなふうに考えていました」 そうして、前述の通り、身体を痛めてしまう。
演奏家としてやっていこうと意識したのは、学生時代でも、院に進んでからでもなく、助手を務めているときだったという。「自分というのは、すごくへなちょこなんだとわかったんですよ(笑)。授業の伴奏など、できないことが多くてついて行くのに必死。死ぬほど頑張らないと務まらないぞと、助手のときが一番練習しました。たぶんあの2年間がないと、今の自分はないと思います」 学生時代とは異なり、スケールの大きな曲を、短期間で仕上げなければならない。プロの世界なら当然なのだが、短い時間で人を魅了する完成度まで仕上げなければならない。「仕事だからやらなければならない。プライドもあるからやらなければならない。怖くてしょうがないからとにかくやる。どの分野でも同じだと思いますが、わからない、怖い、どうしよう、死にそう、みたいな。夢の中でもピアノが鳴っていました」 甲斐あって、そのときの演奏が一番いい演奏ができたと述懐する。
プロとなって5年が過ぎ、考えることにも変化が出てきたという。「よりマイペースになったというか、大学を卒業して音楽だけの環境じゃなくなって、社会に自分が出て行っていろいろな人に出会う中で音楽以外の世界も知るようになりました。そうしたことを経験して、ひとついえることは『深めていかなきゃいけない』ということです。20代の頃は、来た仕事を断らずに手当たり次第に引き受けてやってきました。そのとき、やっぱり間に合わずにいい演奏ができないことや、満足いく仕事ができなかったということもありました。仕事量も大事ですけど、お客さまに良かったと思われる演奏をしないとプロ失格です。お客さまに音楽を提示してそれで食べていくのがプロだと思うんですけど、だったらやっぱりよりいい仕事をしていかないと。そうでなければお客さまに対して申し訳ないです。ある意味で仕事というのではなくライフワークというか、そういうふうに考えるようになりました」
自分のことを「ひとつの事象があるなら、プラスアルファで二つのことを持って帰りたい、欲深い人間なんです」と笑うが、成長したいと学び続ける姿勢、自分をより高めたいとを考え続けている姿勢に感銘を受けた。