挑んでこそ
「陶芸のイメージって、ひげを生やしたおじいさんが、作務衣着て、ろくろ回して、駄目だ、パリーン! そんなイメージだったんですよ」 建築家になりたかったという。大学は建築関係に進みたかったがかなわず、建築に近いところへと考え、スペースデザインコースを志望していた。しかし、ひょんなことから陶芸と出会う。
大学へ入学して1ヶ月余り、知り合った友人に付き添って陶芸部へ赴いた。「陶芸なんて、全くやる気はなかったですよ。汚れるし、片付けもきちんとやらなきゃいけないし、やってみたら案の定うまくできない。1日で辞めました」。さんざんな出会いである。しかし、何かが心に引っかかった。「うまくできなくて嫌で辞めたと思っていたんですが、半年くらい経ってから、ふと、なぜかもう一度やりたいと思うようになりました。それからですね」。
デザイナーになりたいと入った大学だったが、2年経った頃には、表現者として進みたいと考えるようになった。自身の中で、その時点での選択肢は、作家性の強い版画か陶芸のどちらかだったという。「平面か立体か、そこが分岐点でした。僕は、立体を選びました」。
学生時代には、陶芸部を一緒に見に行った件の友人らとともに、グループ展を開催している。そのときには、すでに高さ1mを超える大きな陶芸作品を出展している。立体作品で大きなものを作りたかったというが、ノウハウもなければ作り方すらわからない。試行錯誤しながら、手探りで作品作りに挑んだ。「今思えば斬新な作り方をしていましたね。必要のないところで切っていたり……」。学生時代の間、試行錯誤は続いた。
大きな作品を作りたいと、失敗を重ねるうちに、魅力的に見えてきたのが多摩美術大学だった。「気になる作品の作家の経歴を見ていくと、皆、多摩美なんですよ。どうやって作っているのか知りたくて、多摩美の大学院へ進むことにしました」。中村錦平氏、井上雅之氏らの作品に憧れ、直接指導を受けることを望んだ。「時代や世代的なこともあったと思いますが、自由度が高かったですね。バブルの頃から、陶芸の世界では作品の大型化という流れがあり、小さな窯でも大きな作品を作ることができる、そういうノウハウを学びました。また、陶芸をどう捉えるか、捉え方はいくつもあっていいと当時から思っていましたが、そういう雰囲気もありました」。
願っていた大きな作品をものにした。しかし、そこで立ち止まった。自分の作品を見ても、自分でないものを感じてしまう違和感。憧れてきた作品だが、同じ範疇の作品と思われることへの反発だった。「このときから自分らしさとはどういうことなんだろうかと改めて考えるようになりましたね。そして大きく作品を変えることにもなりました」。 憧れてきたが、自分よりも上の世代の作家が作っている作品で、それを後追いしているだけのように思えたという。自分の感じていること、自分の中で整理されていなくても、そのときやりたいと感じたことをもっと出していかなければならないと決断した。抽象的だった作品に、コーヒーカップ、携帯電話、掃除機……、日常的で具体的なモチーフが加わり、自分自身を客観視した作品が生まれた。陶芸という枠を超え、作品は広がりを見せた。
「学生には『キャパオーバーしてほしい』とよく言っているんです」。失敗や挫折の経験がないと作品は良くならない。「これはやっちゃいけない、といった概念があります。でも、それを疑ってかからないと、新しい発見をしたり、新しいものを作ったりすることはできないと思うんです。手に負えなくなって駄目になったとしても、それを経験しないと得られないことがあると思います」。
単純に物理的に大きな作品を作るだけでも、重力、構造、技法と、考えなければならないことが急激に増えるという。「この20年、デジタル技術の発展がめざましいですよね。以前なら未来のことと思っていたことが、けっこう実現できてしまっています。デジタルやコンピュータの進化で、どんどんやりたいことができるようになっていますが、もしかすると思うようにできないというところに可能性があるのではないかと思います。何より、身体と感覚と思考によった自分の実感を伴ってやっていくことに魅力があるように思います」。新しい技術と現代という時代の中で、土という実材と、自分の手を通した感覚への強いこだわりが感じられた。