1985年、早稲田大学理工学部卒業。株式会社東京放送(現TBSホールディングス)に入社し、オーディオエンジニアとして音楽番組制作に従事。1996年にライブハウス「赤坂BLITZ」、2008年にエンターテインメントエリア「赤坂サカス」の立ち上げに携わる。 2015年、一般社団法人アート東京を設立し、東京・京都・大阪などでアートフェアの企画およびプロデュースを行っている。
2024年4月名古屋芸術大学学長就任。

学長
きし なおひこ
1985年、早稲田大学理工学部卒業。株式会社東京放送(現TBSホールディングス)に入社し、オーディオエンジニアとして音楽番組制作に従事。1996年にライブハウス「赤坂BLITZ」、2008年にエンターテインメントエリア「赤坂サカス」の立ち上げに携わる。 2015年、一般社団法人アート東京を設立し、東京・京都・大阪などでアートフェアの企画およびプロデュースを行っている。
2024年4月名古屋芸術大学学長就任。
「伝統とは、伝承プラス革新である」
そう語る学長の言葉には、70年の歴史を誇る本学が、次の時代に向けてどう変わるべきかというビジョンが込められている。
アートと社会、教育と市場、そして学生一人ひとりの未来をどう結びつけるのか。
放送局から音楽プロデューサー、そしてアートフェアの主宰者へ。
プロデューサーとして培ってきた経験と哲学をもとに、來住学長が語る、名古屋芸術大学のこれから。
「大学卒業後、TBSに入社。ほどなくして退社を考えるようになりました。きっと、自分で仕掛けて、人と人とを繋いでいくことこそが性に合っていたのでしょうね。」と笑う。來住学長にとってすぐ辞めるつもりでいた会社に留まった期間は、ある意味で寄り道であったが、財産にもなった。音楽番組やイベントの現場で「どうすれば観客が集まり、どうすれば資金が回るのか」という生きた感覚を学び取った大切な時間にもなった。「自分自身が本当にやりたいのは目の前の番組作りではなく、人を動かし、お金を循環させ、社会に仕組みをつくることだった。」と振り返る。
來住学長のアートとの接点は、自ら制作することではなく「アートフェアを企画制作運営すること」から始まった。では、アートフェアとは何かと問うと、來住学長は「音楽フェスととても似たものです。」と答えた。
「サマーソニック(大型音楽フェス)などと同じです。海外からアーティストを集めて観客を呼び、そこで音楽を届け、感動と商品を与える興行。それと全く同じ仕組みで、アートフェアは世界から作品を扱うギャラリーを集め、富裕層を招き、そこで素晴らしい作品を売る。根本は何も変わらないのです。」
重要なのは「仕組みを設計する」こと。どのように人を動かし、どのように資金を循環させるか、その視点を持ち込んだ。アーティストやギャラリーと信頼関係を築く過程で、來住学長は単なるマーケット運営者から「アートとアートマーケットを理解する存在」へと認められていったのだ。
「音楽家と長く付き合ってきたから、アート作家にも“この人は理解してくれる”と思ってもらえたのだと思う。アーティストが私を信用してくれたから、ギャラリーも信用してくれるようになったのです。」と來住学長はつぶやいた。
來住学長が繰り返し強調するのは、アートにおける「価値」と「価格」を切り離してはいけないという点である。
「学校はアカデミー、マーケットはエコノミー。日本ではアカデミーが上でエコノミーが下。でも本来は並んでいなくてはいけない。アートはその二つの真ん中になくてはならないのです。」
來住学長は芸術と経済、その両者をどう結びつけるかに、大きな関心を寄せ、しばしば、千利休をその象徴として挙げてこう言うのだ。
「千利休。まさに“価値を価格に変えた”人なのですよ。「美しい」という感覚を、経済の言葉に置き換えた。それによって文化が発展、流通しました。」
茶の湯を通して、侘び・寂びという精神性を美学として高め、それを商人たちと共有できる形式にまで洗練させた。茶道具や空間の美が“価値”として認められ、さらに茶器に“価格”が与えられたとき、初めてその美は社会の中で流通し人々の意識を変えた。來住学長は、そこに「日本文化がかつて持っていたアートの力」を見い出したのである。
「ところが現代日本では、価値と価格が切り離されてしまった。学問としての芸術はあるけれど、社会の中で経済的な力を持つことができていない。それでは、アートは生きていくことができない。」
だからこそ、來住学長は名古屋芸術大学の教育にアートの視点からの「経営」や「経済」を導入しようとしているのだ。価値と価格を両輪で回さなければ、芸術は社会で機能しない。学生たちには、“なぜこれが美しいのか”、さらに“どうすればそれが人に届くのか”を考えて欲しいという。
アートとは、表現することで終わらない、社会の中で生き続ける仕組みをつくることが大切である。千利休が茶の湯を通して美を社会に根づかせたように、來住学長も名古屋芸術大学という教育の場で、芸術を社会に循環させる仕組みを生み出そうとしているのだ。
アートの価値は、社会に出て初めて確定する。それを経済という文脈に乗せる力を同時に学ばなければ、せっかくの創造性も届かない。学生たちが自分の作品の価値を自ら定め、他者に伝えられるようになることこそ、芸術教育の本質といえる。そして、その行き着く先は何処か、ゴールは多様だと來住学長は言う。
「美術館に作品が収蔵されることは、もちろん一つのゴールです。けれど、それだけが道ではない。地域社会に根づき、お店や公共施設に作品を置かれ、人々の日常に溶け込ませている作家もいる。あるいは、IPとして海外でフィーチャーされることも一つのゴールでしょう。アートの道は一つではなく、ありすぎるほどに多岐多様なのです。」
「多様なゴールを学生に提示すること」こそが大学の使命と來住学長は語る。
「複数のゴールを示し、“君はどこに行きたいのか”を考えてもらう。大学とはそうした選択肢を具体的に提示し、学生が自分自身で己の道を描けるようにする場所なのです。」
大学の将来像を語るとき「伝統」という言葉が使われる。ただしそれは、単に過去を守ることを意味しない。
「伝統は伝承プラス革新です。」
この考え方に至った背景として、來住学長は歌舞伎の舞台を例に挙げる。
「歌舞伎だって最初は屋外公演から始まり、その後、雨が降ったらどうするか、と工夫を重ね、ロウソクから電気照明に変わった。それによって演出が変わり、新しい表現が生まれました。伝承されてきた型を守りつつも、その時代ごとの技術や環境に応じて変化を取り込むことこそが即ち“伝統”なのだと思います。」
そして、名古屋芸術大学の70年の歴史をどう継承し、進化させるかについて、來住学長はこう強調する。
「創立者である水野 子先生がつくられた伝承はしっかり受け継ぐ。同時に、今のテクノロジーや時代の要請に応じて新しい仕組みを加えていく。それが名古屋芸術大学の未来を輝かせる方法なのだ。」
そして「名古屋芸術大学を作るのは私ではない。今の学生や若い世代が作るのです。彼らが社会に出たとき、自分たちが在学していた時よりも名古屋芸術大学が輝いていなくてはいけない。」と熱く語る。
伝統をただ保存するのではなく、未来の学生と卒業生の手によって革新を重ねていく。そのための準備が進められている。
従来のクラシック教育にエンターテインメント性を加え、「演奏者=プレイヤー」から「舞台を総合的に創り上げるアーティスト」へと育成の軸を広げる。これまで“演奏者=プレイヤー”として技術を磨く教育に加え、観客を惹きつけるステージ演出やパフォーマンス力を学ぶ機会を提供する。たとえば、クラシックの枠組みを保ちながらも照明や舞台美術と組み合わせ、総合的に「舞台を創る力」を養う。純粋な演奏技術を超え、聴衆に新たな体験を届けられるアーティストを育成する場として確立する。
作品制作の力に加えて、市場でどう評価されるかを理解する教育を強化する。学生にはまず多くの作品を見ることを求め、さらにさまざまな場所での展示、また、できれば他の作家の作品を所有することを経験させる。こうして「好き嫌い」と「価格」の二軸で価値を体験的に学ぶ。複数のゴールを提示し、自らの進路を主体的に選び取れる力を育てる。
「日本のデザインは優秀なのです」と断言する。愛知の“ものづくり”の土壌を背景に、日本独自のデザイン思考を世界に発信することが名古屋芸術大学の使命だと位置づける。「デザインは共通言語です。思想を伝える手段であり、国境を越えて理解される可能性を持っている」。日本のデザインが持つ考えを「ジャパニーズ・デザイン・シンキング」として体系化したい。簡潔さ、余白の美、機能と精神性の共存といった日本文化に根ざした思想を、海外の学生に学んでもらい、また母国へ持ち帰らせる。授業の英語化も検討する。
附属幼稚園を擁する教育学部は、名古屋芸術大学ならではの特色を持つ。芸能事務所が築いてきた育成法に注目し、それを教育学に接続する構想を描く。幼児教育の場で表現を学び、さらに芸能的なメソッドを組み合わせることで、子どもの感性や表現力を伸ばす新しい教育モデルを目指す。学生の吸収力を活かし、従来の教育者像を超えた「芸術性と表現力を備えた教育者」を育成する。
「あなたの存在こそが尊い。できるできないは関係ない。唯一無二であることを信じてほしい」。
來住学長の言葉は、すべての領域に共通する教育理念を示している。各領域、それぞれ異なる道を歩みながらも、学生一人ひとりを「唯一無二の人材」として尊重し、社会につなげる。それこそが名古屋芸術大学の教育スタイルなのである。